石岡市北府中:木間塚古墳群

過日,木間塚古墳群(茨城県石岡市北府中)を見学した。
木間塚古墳群は,3基の円墳で構成される古墳群。木間塚古墳群に関しては,茨城県石岡市教育委員会・石岡市遺跡分布調査会編『石岡市遺跡分布調査報告書』(2001年)の図No.4と53頁に所在地の記載がある。しかし,その記載それ自体に致命的なとんでもない欠陥があり,個々の古墳を特定できない。
基本的には,情報学の基本ができていないかかこういう致命的な欠陥が生じるのだろうと思う。乞われれば(時間的・体力的余裕がある限り)いつでも教えてやるのだが,乞われたことは過去に一度もない(笑)

そこで,やむを得ず,このブログ記事では,木間長者の子孫とされる山口家本家の祖先を祀る墓石があるという古墳(市報いしおかNo.418参照)(石岡市北府中2丁目所在)を「西端の古墳」と表記し,ミカド石岡店の近くにある古墳を東端の古墳(石岡市北府中1丁目所在)と表記し,それらの古墳の中間の場所に位置する古墳を中間地の古墳として表記することにした。

古墳の付番がよくわからくなってしまっている原因及びその法的責任は,全て,文化財関連情報をオープンデータとしてネット上で無償で公開していない石岡市当局(教育委員会)にある。

それはさておき,東端の古墳(木間塚2号墳?)は,ミカド石岡店の南西側隣地の敷地内にある。目測で直径20m前後・高さ3~5m程度の円墳。墳頂に墓石がないので,「木間長者墓所の古墳」には該当しない。
民家敷地内にあり近くまで寄れないので,公道から見える範囲内で写真を撮影した。障壁があるので,古墳の墳頂付近及び墳頂にある石碑しか写っていない。


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東端の古墳所在地付近


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東端の古墳(ズーム)


中間の古墳(茨城県石岡市北府中2丁目所在・木間塚3号墳?)は,ミカド石岡店の西約150mのところにある。
葡萄農園奥の民家敷地内がその所在地と思われる。近くまで寄れなかったので,墳丘の存否を含め,詳細は不明のまま。


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中間地の古墳の所在地付近


西端の古墳(木間塚1号墳?)は,中間地点の古墳の北西約100mのところにある。1辺20m前後・高さ3~5m程度の方墳または円墳のように見えるが,墳丘裾が掘削された結果そのようになっているので,元はもっと大きな古墳だったのだろうと思う。
墳頂には大きな墓石がある。木間塚長者の墓所とされている墓石に該当すると思われる。ただし,墳丘には登っておらず,碑文等を確認していないので,確実ではない。


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南東の方から見た西端の古墳


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南西の方から見た西端の古墳


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西の方から見た西端の古墳


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墳頂の墓石(ズーム)


西端の古墳の所在地は,北の谷遺跡と呼ばれる縄文時代,奈良・平安時代,近世の複合遺跡の包蔵地となっている。空地になっている場所が少なくなく,その地下にはまだ遺構が眠っているのかもしれない。


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北の谷遺跡所在地付近



この記事へのコメント

電脳老人A
2023年02月02日 02:54
山口雅嗣さん

舎人親王と関連する伝承は石岡地区にもあります。

例えば,高照山養願院東耀寺の縁起の中に舎人親王が出てきます。

  https://www.city.ishioka.lg.jp/sp/page/page001457.html

現在では存在しなくなってしまっているとしても,かつては他の寺院にも類似の伝承が存在した可能性がありますね。

また,『日本書紀』の編纂と関連して調査と資料収集のために,漢字の読み書きのできる官吏または僧侶が朝廷から常陸國に派遣された可能性があり,その官吏または僧侶の子孫や関係者の子孫が,「舎人親王から命ぜられた仕事をした者の子孫」であるのにいつのまにか「舎人親王の子孫」という具合に短縮して表現されるようになったというようなことはあり得ることではないかと思います。

一般に,『日本書紀』では,全国の有力氏族からその氏族の歴史を記した書物を提出させ,それらの提出された書物を参考にしながら全体が編纂されたということになっています。
無論,有力氏族の中には漢字の読み書きに堪能な僧侶が所属する菩提寺をもつ者もあったかもしれませんが,そうではない場合,各地の国府に派遣された官吏や僧侶が各地の口承による伝承を調査し,漢文で書面化して朝廷に提出したというようなこともあったのではないかと想像されます。
後者の場合,現地の協力者が多数存在しなければ達成不可能な事業なので,そのような協力者が,『日本書紀』の編纂と関連する仕事が終了した後,「舎人親王様の命により国家的に大事な仕事を俺がやったんだ」というような趣旨のことを子孫に誇り,そのことが代々伝わっている間に次第に伝承内容が短縮化され,変化したというようなことは十分に想像できます。

石岡の場合,国府の所在地であり,国分寺もあるので,漢字の読み書きに堪能な僧侶や官吏が多数存在したと想像するのが当然のことなのですが,それだけではなく,漢字を使用できる者が多数存在したということが遺跡から出土した墨書土器の破片等によって既に証明されています。
それらの墨書土器は,石岡市にある常陸風土記の丘公園の屋内展示室でも展示されています。
山口雅嗣
2023年02月01日 23:49
早速のお返事ありがとうございます。
墳墓には平国香と舎人親王を祀っています。
平国香はわかるのですが、舎人親王に関しては何故だかわかりません。
父からも余り詳しいことは聞けませんでしたので、時間を作って石岡市の図書館で調べてみたいと思います。
常磐道の工事でふたつの古墳が無くなったので、木間塚長者の墳墓に合祀したのかもしれません。
いつから山口を名乗ったのかもわからないのです。
大掾と木間塚の関係について調べてみたいと思います。
電脳老人A
2023年02月01日 05:10
山口雅嗣さん

コメントありがとうございます。

西側の古墳の上にある石塔はとても立派なものなので,石岡市の広報で山口家が代々守ってきたものだと知って驚いておりました。

一般に,茨城県内には非常に古くから続く家系が多数存在しているので,「凄い県だ」といつも思っております。

これまでの旅の中で調べたり知り合ったりした結果,戦乱や大規模自然災害等のために郷里から離れざるを得なくなり,後にまた元の場所に戻って暮らしているという一族の子孫の方を複数知っております。
紙の系図等の証拠書類をもっていない場合でも,菩提寺の過去帳等の記録や(関連地域の神社や寺院の境内に立てられている)古い奉納碑に記された姓名または家号などから「ほぼ間違いない」と確認できる例が少なくないようです。

無論,口頭による伝承の価値は,一般的に考えられているよりもかなり大きな場合があると理解しております。

山口さんの場合も地元の寺院や神社等を丁寧に調べると,何か残されているかもしれませんね。
山口雅嗣
2023年02月01日 00:33
父が東京に本籍を移す前は石岡が本籍地でした。
祖父は本家の長男です。
山口家祖先の墳墓には茨城に行った時にはお参りしています。
千年余り同じ地に本拠地を何故構えられたかについて調べてみたいと思いますが、度重なる大火で書物は残っていないでしょうから、伝承だけになるのでしょうね。