坂東市山~生子新田:駒寄城跡など
過日,駒寄城跡を含む周辺の遺跡(茨城県坂東市山~茨城県坂東市生子新田)の一部を見学した。
この駒寄城跡の所在地は,複数の異なる名称で呼ばれる異なる時代の遺跡が多重に存在している複合遺跡包蔵地であり,しかも,その全体が完全に発掘調査されているわけではないので,よくわからない部分が多いというかなり厄介な場所だ。
現在,駒寄城跡周辺の遺跡は,いばらきデジタルマップ上では,「駒寄柿沢遺跡(柿の沢貝塚,駒寄遺跡,柿の沢住居城跡,駒寄城跡)」として多重的な記載となっている。複合遺跡という趣旨なのだろう。時代区分としては,縄文時代,古墳時代,中世の遺跡が含まれているようだ。
なお,猿島町史編さん委員会編『猿島町史 通史編』(平成10年)の289~291頁に駒寄城に関する詳細な解説があり,また,『猿島町史 資料編 原始・古代・中世』(平成5年)の143~145頁に駒寄柿沢遺跡に関する詳細な解説がある。
駒寄城に関し,一般的には,坂東市猿島庁舎の東にある台地突端部が城跡の所在地とされており,空堀と土塁が残されている。この土塁は古墳を二次利用したものではないかというような印象を受けた。
駒寄城跡の土塁から東側に位置する部分は民家敷地になっており,勝手に入ることができないので,公道から見える範囲内で見学した。
土塁から西側に位置する部分は台地上の畑となっている。明らかに道だとわかる部分だけを歩いて見学した。
空堀の部分は道のようになっていたので少し入ってみたのだが,北側出口付近から先が民家敷地のような感じになっていたので,それが見えたあたりから引き返した。
なお,現在では,駒寄城跡とされている部分と猿島公民館等の建物のある区画との間は西仁連川によって分断されている。
しかし,西仁連川は,飯沼川の迂回流路として江戸時代~明治時代に構築された河川なので,駒寄城が築城された当時には存在しなかった。
西仁連川
(右手に見えるのは駒寄城跡西端付近の一部)
南西の方から見た駒寄城跡西側部分北西端付近
西の方から見た駒寄城跡西側部分西端の一部
(手前は西仁連川)
西の方から見た駒寄城跡西側部分南西端付近
南の方から見た駒寄城跡西側部分南端付近
駒寄城跡の南東側を通る道路
(中央は駒寄城跡東側部分・左手は空堀所在地付近)
駒寄城跡の方に登る道
(左手奥は駒寄城跡西側部分・右手前は駒寄城跡東側部分の一部)
空堀入口付近
空堀
土塁の一部
駒寄城跡東側部分南東端付近
生子新田分校址
生子新田分校址碑
生子新田分校址敷地内になる駒寄城跡東側部分南東端付近の土塁跡の一部?
南東の方から見た駒寄城跡東側部分南東端付近の一部
路傍の馬頭観世音
北の方から見た駒寄城跡西側部分北端付近の一部
同上
生子新田付近から見た筑波山
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