長野県下高井郡木島平村往郷:大塚遺跡

2022年8月中旬のことだが,長野県下高井郡木島平村にある遺跡の中の主要なものを見学した。
駐車スペースの有無が不明だったので,木島平村役場で挨拶し,役場の駐車場にクルマを停める許可を得た上で,そこから先は全部徒歩で往復。村役場の駐車場を借りることができて,本当に助かった。担当の方の対応も非常に親切だった。
なお,実見したところ,幾つかの遺跡前には若干の駐車スペースが確保されているところもある。木島平村にある遺跡を見学する場合,駐車スペースの有無が確実に確認できないときは,村役場の担当者から許可を得て村役場の駐車場を借りるのがベストの解だろうと思う。


IMG_0427.JPG木島平村役場


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タイムカプセルの標石


大塚遺跡は,かつては,山全体が古墳だと考えられていた。
現在では,自然の山の丘陵部と周辺の水田等に縄文時代~弥生時代の複数の遺跡があるのだと考えられている。

大塚遺跡がある山の頂上では柱松子(柱松柴燈神事)という神事が行われていたらしい。ただし,私が訪問した時は,その残骸のようなものしか見当たらなかった。時期外れだったのだろう。
この神事は,日本国(倭国)の古代を知るために非常に重要な鍵となるものの1つであったかもしれない。石田隆義『山陰の民俗と原始信仰』(昭和40年)に収録されている写真を観ると,その感をいよいよ深める。同書の出版当時においては普通に存在した景色の写真だったのかもしれないが,現在ではそのような光景それ自体が存在しない。一般に,普通の写真の価値は極めて高い。

他方,木島平村にある自然の山の上にある遺跡という存在形態は,例えば,佐久市において頻繁に見られる火山噴火による火砕流によって形成された流れ山の上にある古墳のような遺跡の存在を理解する上でも極めて重要だと思われる。
より広くは,北関東一帯において,自然の山を墳丘に見たてた上で,その頂上に実際の墳墓を構築するという様式にも通じるものがある。古墳築造時の実力では巨大古墳を築造できなかった場合,自然地形を利用して墳丘に見立てることは当然の発想なので,そういうものも(全体として)墳墓の一種であると理解するような柔軟な視点が必須となる。

ただし,現実には,そのように柔軟に発想することが全くできない狭量な思考能力しかもたない「専門家」が決して少なくない。学校で教えられ,暗記した典型的なタイプの墳丘墓しか認識・理解できないのだ。

日本人の誰もが正しい史観を得ることができるようになるまでには,あと100年~200年くらいかかるのだろう。現在生きている大多数の人々は思考上の惰性だけで生きており,(真の意味で)「思考すること」を避けている。
何かと面倒なのだ。


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北東の方から見た大塚遺跡


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東の方から見た大塚遺跡


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大塚遺跡入口付近


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「大塚山**」の標識


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登り道


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頂上手前にある塚状地形部分


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塚状地形部分にある石祠


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頂上付近全体の様子


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山頂の石祠


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柱松子?


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大塚遺跡の入口付近から見える景色


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南の方から見た大塚遺跡のある山


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大塚遺跡の南側にある灌漑用施設


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大塚遺跡の西側にある石碑のある場所


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区画整理竣工記念碑


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基盤整備事業竣工記念碑


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木島村有機センター



 木島平村:木島平村埋蔵文化財包蔵地について

 木島平の風景「四塚」



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