セリ?
2022年8月下旬のことだが,佐久市内を散策中,水田の脇の沢のある土手のようなところで,セリ(Oenanthe javanica)と思われる植物が開花しているのを見た。
葉の特徴がセリの葉ではなくドクゼリ(Cicuta virosa)の葉のように見えるけれども,葉柄が長くないので,たぶんセリだろうと判断した。
私が見た個体群は,タマガヤツリ(Cyperus difformis)またはそれと類似するカヤツリグサ科の植物と思われる植物も混生していた。つまり,全体としてそれほど大きくない個体群だった。
一般に,セリの仲間は,日本列島に自生の植物というよりは,非常に古い時代に稲作と一緒にインドシナ半島~中国大陸南部あたりから(積極的な人為的移入により)やってきた植物(=史前帰化植物)なのではないかと思うようになってきた。
一般に,毒草であっても「専門家が希釈して用いると薬品になる」というのが古代中国の薬方の基本。中には毒草を毒草として使用する例(=「安楽死」)もあったのではないかと想像される。一般に,現代における「生存の確保」だけを基本的な価値と考える西洋医学の基本だけを念頭に置くとすれば,残念ながら,安楽死も当然に是認する古代中国の薬方を理解することなどできない。「特定の価値観から離れられないこと」は,フランシス・ベーコンの「イドラ」の主要要素そのものだ。
この点を踏まえた上で,セリ科の植物は,単に食用植物というよりは,香草(薬用植物)としての効能が期待されていたのではないかと想像される。
中国古代の薬方に関する書籍を何度も繰り返して徹底的に読み込んでいる間に,そのような印象がどんどん強くなった。
あくまでも一般論なのだが,本人が気づかない間に暗殺を実行するためには,その手段となるものが,通常は,「特に問題なく安全なものだ」と認識され得るものである必要性がある。
セリ科植物の分布に関して,日本列島内においては,弥生時代における人々の移動によって分布が拡大し,大和朝廷による支配の拡大によって更に分布範囲が拡大した植物なのではないかと思う。
「**尊」または「**命」として人格化された神となり,崇敬されている豪胆な将軍達に率いられた朝廷軍は,様々な経路を経て関東平野に至った。 当時の関東平野は,かなりの部分がまだ海(内海)や湿地だった。だからこそ,大和武(倭武)の様々な伝承の中においても,水路における困難と関連する伝承が多いのだ。大和武は,死して白鳥になるが,大和武の「白鳥」と想定されるダイサギ(Ardea alba)は,内海の岸辺や湿地に棲息する。そのことを確認するため,多年をかけてダイサギの生息地を探訪してきた。
また,古代の神の名の大半は,特定の家系の者の襲名またはそれに類する呼称である可能性が高い。現代でも,地方の名家の中には,非常に古い時代からの屋号または家号を用いる家系が多数存在する。このことは,現代の都会に住む普通の人たちには理解が困難なことかもしれない。しかし,そのような家号は現実に多数存在する。だから,符号情報に頼るだけではなく,相当の時間を費用をかけて,関連する場所を実際に探訪し,自分なりに考えてみることが大事なのだ。
一般に,現代の若者は,逆に,スマートフォンの画面に表示される表層的な画像だけで満足してしまうことが少なくないかもしれない。しかし,それは,「知性の貧困」そのものだと言える。標準化された支配的な符号情報だけでものごとを理解しようとすると,基本的に間違う。
岐阜あたり~伊那~信州を経由し,何年かの年月をかけて関東北部に侵攻した朝廷軍の将兵は,屯田のために,略奪できるときは略奪し,略奪できないときは米(種籾)だけではなく,非常に多種類の有用植物の種子,茎,根などを携行し,侵攻先の屯田地で植栽・栽培したものと推定される。
その当時において,育成・増殖のための種子や根等を携行できる薬用植物または有用植物の種類は限られる。
ただし,律令体制下の国家的な仏寺等が整備された後には,薬師如来の御加護として,各種薬草の種子や苗が配給されたことはほぼ間違いない。
そのような薬方の普及のための標準教科書的なものとして,律令時代には『医心方』が導入された。それまでの薬方は『大同類聚方』としてまとめられたが,体系性において劣っているため朝廷が採用することにはならなかった。しかし,その断片は,各地の神社や仏寺で伝承された。
私の理解では,漢代またはそれ以前の薬方が日本列島に伝えられ,各地で口承等により伝承されたものの総体が『大同類聚方』なのではないかと思う。より正確には,中国の隋代以前の官学を重視する立場と唐の官学を重視する立場との間の政治的抗争とその影響が存在したものと推定される。
なにしろ,当時は(←もしかすると,現代でも),「権威の世襲」(=公的権威があることによる財政上の利益の分配を独占的または優先的に受けることのできる立場の存在)が俗世的には極めて重要だからだ。
このあたりのことが非常に重要で,日本の古代史の一部は,古代薬方の理解(+その理解のために必須な現代のDNA分析を踏まえた最新の植物分類学の知識)を総合的に組み合わせて応用・実践する高度な能力が必須だ。
これらのことを理解しない軽薄な環境保護関係法学や関連知知財法学は,笑止の一言に尽きる。
「対象に関する無知」を基盤としては,「正常な法理論」など絶対に構築できない。
このことは,古代ギリシア哲学時代から繰り返し強調されてきたことだ。
しかし,現代の若者の知的能力(=脳細胞における情報処理能力またはその機能)は,(たぶん環境ホルモン等の影響により)どんどん劣化しており,古典哲学を比較的短期間で完全習得できるレベルの若者と出逢う機会がどんどん減ってしまった。現時点ではほぼ皆無に近い。
これらのことは,現代に特有のことではなく,実は,律令時代にも経験している。製鉄や貴金属の原石に含まれるヒ素,硫黄,カドミウム,その他の有害成分による汚染に関しては,わかっている人は十分にわかっているはずなのだが,ほぼ全員口を閉ざしているので(=そのよな諸点を強調して述べると,当該組織内で出世できなくなる,または,当該社会から排除されるリスクがあるので),一般国民が知る機会に欠ける。現代社会は,田中正造の時代と基本的に何も変わっていないし,今後も変わりようがないように見える。
それはさておき,花粉化石等のDNA分析をやっていないので確実ではなく,単なる空想の一種に過ぎないのだが,たぶん,東南アジア~中国大陸南部を経由した亜種タイプのものと東南アジア~フィリピン諸島~台湾~南西諸島を経由した亜種タイプのものがあるのではないかとの仮説を立てている。葉の形状が比較的寸詰まりとなっているタイプのものとドクゼリの葉のように比較的細長くなっているタイプのものとが存在する。
誰か将来の有能な研究者がこれらの点に興味をもつことを期待している。
ポイントは,歴史時代以前からの自生植物や野生動物はほとんどなく,大半は弥生時代以降に人為的に移入された動植物または結果的に一緒にやってきた動植物だということを素直に認めることだ。もともと栽培植物であれば,人為的な選択による品種レベルの分化が非常に短期間に容易に発生するし,突然変異株の遺伝子が保存されやすい。
加えて,特に西日本においては,火山の大爆発により縄文時代以降に大絶滅を経験しているので,そのことを無視した立論は,全て完全に荒唐無稽だと言える。更に古い時代に遡ると,西日本だけではなく,全国各地において,地球物理学的なリセット状態から全てやり直しとなったことが何度もあると理解するのが正しい。
ちなみに,このような地球物理学的な大規模リセットは,常に,いつでも発生し得るものだということを銘記すべきだ。
それを基礎として,各人の人生観を見直す必要性がある。
そのような思念に至ることができれば,仏教における「悟り」と同様,つまらない現世的欲望には主要な意欲を注ぐことなく,「本来なすべきことを淡々とこなすことが当然だ」というような心境に至ることができる。
東京都健康安全研究センター:セリとドクゼリ(有毒)
三河の植物観察:ドクゼリ 毒芹
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