佐野市赤見町~小中町:五箇古墳群(その1)

過日,五箇古墳群(栃木県佐野市赤見町~小中町)を見学した。
五箇古墳群は10基の古墳で構成される古墳群。

ところが,栃木県教育委員会事務局文化課編『栃木県埋蔵文化財地図』(平成9年3月)上では栃木県の遺跡番号として5319-1~5319-10という枝番付きの番号が付されているのだけれども,佐野市史編さん委員会編『佐野市史 資料編Ⅰ』(昭和50年)の121~163頁,231~232頁によれば,発掘調査当時までは「五箇古墳」と呼ばれていた湮滅古墳を仮に五箇古墳群の1号墳と仮称することにし,その後,湮滅した五箇古墳の北東に連続して現存している2基の古墳の測量調査が実施された際,五箇古墳群の2号墳及び3号墳と仮称することにしたのであり,4号墳~10号墳までのあてはめを確定するための公式文書(行政決済文書)が存在し得ない状態だったことがわかる。
それゆえ,一般に五箇古墳群の4号墳,7号墳(湮滅)及び10号墳と呼ばれている古墳も俗にそのように呼ばれているというだけのことであり,公式の付番なのかどうかわからない。
その後,登録原簿上で枝番が付されているのかもしれないが,遺憾なことに適切な情報公開が実施されていないので,個別に問い合わせをして原簿を確認しない限り,(関連担当者を含め)誰もわからないという状況が長年にわたり継続している。
佐野市当局は,佐野市内の遺跡の現在の付番と分布図をインターネット上で全面公開すべきだと判断する。

このような状況の下にあるのだが,そのことを怒っていても仕方がないので,このブログ記事では,五箇古墳群の1号墳~3号墳以外の古墳に関しては,五箇古墳群という名称ではなく蓮沼古墳群という名称が使用されていた時点におけるものではあるが,佐野市史編さん委員会編『佐野市史資料第2集 佐野市遺跡所在目録』(1972年)及び同目録附属の「佐野市遺跡分布図」の中で公式に確定されて使用されている佐野市遺跡番号により識別特定することにした。ただし,佐野市285遺跡に関しては『佐野市史 資料編Ⅰ』233頁の記載及び佐野市史編さん委員会編『佐野市史 通史編上巻』(昭和53年)の150頁によることにしたけれども,『佐野市史 通史編上巻』の150頁では佐野市217遺跡の古墳が現存しており方墳である旨が表示されているので,明らかに誤記と判断し,無視することにした。ちなみに,『佐野市史 通史編上巻』の150頁に図示されている古墳所在地は,正確性に乏しい。『佐野市史資料第2集 佐野市遺跡所在目録』附属の「佐野市遺跡分布図」を参照しなければならない。

それらの番号の対応関係を整理してみると,以下のとおりとなる。佐野市遺跡番号は1972年当時のもの。括弧内の「D-**」という番号は佐野市遺跡所在目録のための整理番号。

   佐野市212(D-82)  俗称五箇4号墳   円墳       現存
   佐野市213(D-83)             円墳       現存
   佐野市214(D-84)  俗称五箇7号墳   円墳       湮滅
   佐野市215(D-85)  仮称五箇1号墳   円墳       湮滅
   佐野市216(D-86)             円墳       湮滅
   佐野市217(D-87)             円墳       湮滅
   佐野市218(D-88)  仮称五箇2号墳   ほたて貝形古墳  現存
   佐野市219(D-89)  仮称五箇3号墳   前方後円墳    現存
   佐野市220(D-90)             円墳       湮滅
   佐野市285       俗称五箇10号墳    円墳       現存

これらの古墳中の佐野市285遺跡に該当する円墳(赤見山崎古墳)については,既に見学し,ブログ記事を書いた。今回の訪問では,五箇10号墳と俗称される赤見山崎古墳以外の現存古墳と仮称五箇1号墳所在地等の現況を観察した。

さて,五箇1号墳(佐野市215遺跡・栃木県佐野市小中町)は,「五箇古墳」とも呼ばれ,発掘調査時点で直径22m・高さ1.9m(原形推定高さ2.5m)の円墳だったが,道路設置工事のため,発掘調査後に破壊され,湮滅した。
俗称五箇1号墳の所在地は,粟野興産株式会社佐野営業所(栃木県佐野市小中町)の事業所敷地北西角にある交差点の中央付近だったと推定される。

同事業所の北西側隅にある駐車場敷地内には,かつて,佐野市216遺跡(直径11m・高さ1.5mの円墳)と佐野市217遺跡(直径15m・高さ1.8mの円墳)に該当する2基の古墳があったけれども,いずれも駐車場造成のために破壊され,湮滅している。なお,『佐野市史 通史編上巻』の150頁では,佐野市217遺跡の古墳を方墳として表示している。誤記かもしれないが,よくわからない。

同事業所の北西角の入口付近には大きな石が集められている場所がある。これらの古墳の石室材だった石材なのではないかと想像したけれども,同社の担当者から確認をとっているわけではないので,私の単なる想像に過ぎない。


IMG_6204.JPG五箇1号墳(湮滅)の所在地


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粟野興産株式会社佐野営業所北西隅にある石材


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粟野興産株式会社佐野営業所北西角の駐車場付近


測量調査の結果,五箇2号墳(佐野市218遺跡・栃木県佐野市小中町)は,長軸20m,後円部直径16m・後円部高さ2.5mのほたて貝形古墳であり,五箇3号墳(佐野市219遺跡・栃木県佐野市小中町)は,長軸30m,後円部直径18m・後円部高さ2.5mの前方後円墳であるとされている。
五箇2号墳及び五箇3号墳は,五箇1号墳の北東に位置する太陽光パネル群の中に取り残された雑種地のような場所に,北東方向に向けて2号墳,2号墳の順に並んでいる。
現地は,長年にわたり手入れされていない場所のようで,草ぼうぼうでクズのようなつる植物が分厚く蔽っているような状態にある。そのため,これらの古墳に墳丘にアクセスできないことは無論のこと,そもそも墳丘それ自体が全く見えない状態となっている。しかし,古墳所在地だけが異様な高まりとなっているので,航空写真と照合した上でその場所が古墳所在地だと判断した。
なお,『佐野市史 通史編上巻』の151頁には「昭和五十年に日本窯業史研究所による五箇三号墳の発掘調査と周辺の古墳群の測量調査が実施され,現在に至っている」とあるが,その発掘調査の結果を探索することは不可能であり,また,その報告書が実在するか否かも不明。『佐野市史 資料編Ⅰ』に収録されているのは,国学院大学による五箇1号墳の発掘調査結果の全文であり,五箇3号墳に関しては測量調査結果のみが収録されている。他方,日本窯業史研究所による蓮沼3号墳の発掘調査結果報告書は存在する。これらのことから,『佐野市史 通史編上巻』の151頁に記述は,明白な誤記と断定して良いと判断した。速やかに改訂版が刊行されるべきである。

五箇2号墳と五箇3号墳の所在地の北側に位置する太陽光パネル群の更に北側には小規模な宅地区画があり,この宅地区画内に,かつて,佐野市220遺跡の古墳(直径10m程度の円墳・栃木県佐野市小中町)が存在したけれども,宅地造成のために湮滅し,現存しない。その正確な所在地は,今となっては全くわからない。


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五箇1号墳所在地から東の方に進む道


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五箇1号墳と五箇2号墳の間にある太陽光パネル
(右奥に見えているのは五箇2号墳の墳丘上のつる植物)


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南の方から見た五箇2号墳の所在地


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南東の方から見た五箇2号墳(左)と五箇3号墳の所在地


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北の方から見た五箇3号墳の所在地



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