センニンソウ
先日,取手市内を散策中,あちこちでセンニンソウ(Clematis terniflora)が開花しているのを見た。
茨城県立取手第一高等学校の校舎北西側を通る道路の崖縁にあるフェンスにも多数のセンニンソウの蔓がからみつき,花を咲かせていた。その写真を撮っていたら,通りがかりの御婦人から「何をしているの?」と声をかけられた。
そこに無数に花が咲いているのがわからなかったのかもしれないし,このような野草の小さな花の写真を撮るのが好きという人が存在することを知らなかったのかもしれない。
あるいは,変質者だと疑われたのかもしれない(笑)
あくまでも一般論だが,古墳のような古代の遺跡や小さな山野草のような対象に強く好奇心を抱く者が多数者ではないということは事実だと思う。
そもそも,標準的な人間は,(生まれつきまたは環境的要因により)好奇心がないので標準的なことしか考えず,標準的なことしかできない人間として育ち,そのようにして生き,そのようにして死ぬ。
逆に,好奇心の強い者は,社会全体の中ではかなり少数者なので,異端者または変質者もしくは変わり者もしくは邪魔者として扱われることが非常に多い。単純多数決を絶対視すると,そのような差別待遇は「正常なこと」ということになりそうだ。しかし,そのようにし,そのように思考することが少数者の迫害や差別に該当するものであることは否定しようがない。
そして,好奇心の強い者だけが社会全体のブレークスルーやイノベーションをもたらし得る。
このことは,経済発展や学術や芸術の進歩や国際的な軍事上の優位性の確保のためには非常に好ましいことなのだが,現時点における社会の支配層にとっては「にがにがしく」感じられることがあるだろう。
例えば,そのような好奇心の強い「ど素人」の発見によって天下の最高学府の教授や国内最大派閥のような学術グループの権威や学説がたちまち根底から反故にされてしまうことはあり得る。もともと何の努力もしないで権威にあぐらをかき,常に「見直し」をしようとしない自分達の怠慢が悪いのだが,きっとそのようには考えないだろう。
だから,そのような者らは,社会の中で常に標準的であり続けることができる反面,歴史に名を残すことなど絶対にできないのだ。
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