佐野市下彦間町:正光寺・正光寺城跡・正光寺古墳群(その3)
過日,真言宗大日派・大塚山正光寺(栃木県佐野市下彦間町)を参拝した。
『田沼町遺跡所在目録』の16頁には「正光城跡」の記述があり,「立地 現状」の欄には「台地 墓地」と,「遺構 遺物」の欄には「堀切 曲輪 土塁」との記述がある。一般的には,正光寺境内地の北東側に位置する台地上の最も高い部分のことを指すと理解されており,確かに,その場所には堀切と曲輪跡と土塁がある。しかし,西側土塁の南側~西側にも曲輪と土塁のような地形が続いており,おそらく,かつては正光寺の現在の堂宇と墓地区画のある場所まで続いていたと推定できる。つまり,正光寺の境内地全体が城跡だと理解するのが正しい。
他方,『田沼町遺跡所在目録』の15~16頁には正光寺古墳群の1号墳~12号墳に関する詳細な記述がある。この記述に基づいて検討してみた結果,1号墳(直径15m・高さ2.8mの円墳,石室閉塞部が一部露出),2号墳(直径20m・高さ2.3mの円墳,埴輪出土),9号墳(直径20m・高さ2.5mの円墳,墳丘上に天満宮を祀る)の3基は,確実に同定できた。6号墳(直径11m・高さ1.3mの円墳,玄室が露出)は,正光城跡の虎口と思われる部分の西側の土塁が該当すると一応推定できた。
これら合計4基以外の古墳は,確定できないのだが,その所在地ではないかと疑われるような場所が複数存在した。
結論として,正光寺城は,もともと群集墳として存在していた古墳群所在地の一部に堀切を設け,墳丘中の幾つかを土塁として二次利用して構築された砦のような軍事的性格をもつ施設だったのではないかと思われる。
城の範囲は,現在の正光寺の境内地全部を含むもので,周囲は土塁と堀に囲まれていたと推定される。
(中央左寄りの少し明るい塚状地形の場所には石材がある・8号墳?)
(中央奥の虎口左側土塁には石室様のものがある・6号墳)
(中央奥の虎口右側の土塁は7号墳と推定される)
主郭の南側~西側にある堀切
(左手の樹木のある場所付近が8号墳?)
(右手の比較的大きな土塁が6号墳)
南西の方から見た6号墳
6号墳の石室開口部と思われる場所
石室開口部と思われる場所の近く(右下)にある石材
主郭の西側の堀切
堀切の西側にある土塁
土塁の西側にある曲輪(館跡?)のような地形部分
(奥に見えるのは庫裏の屋根)
同上
堀切の北端付近
(右奥は主郭の北西隅付近)
堀底道(北側)から見た堀切
南西の方から見た6号墳の西側に隣接する塚状地形
(土塁跡または古墳)
(古墳であるとすれば,4号墳または5号墳?)
6号墳の南側にある石材のある塚状地形部分(8号墳?)
南東の方から見た石材が多くある場所(8号墳?)
南の方から見た石材が多くある場所(8号墳?)
8号墳所在地と思われる場所付近にある葺石のような石材
虎口南東側の堀切
堀切の先にある急斜面
堀底道(東側)から見上げた6号墳
南の方から見た虎口
(元は木橋がかかっていたと想像される)
(左手の土塁が6号墳・右手の土塁が7号墳?)
東の方から見た6号墳
北西の方から見た6号墳
北東の方から見た主郭南西側の土塁(4号墳または5号墳?)
北の方から見た主郭南西側土塁上の様子
(中央奥は6号墳)
(左手奥は虎口東側の土塁(7号墳?))
土塁の上から見た主郭西側の堀切とその西側の土塁
主郭北端付近にある八幡宮の石祠
主郭北側の急斜面
主郭北東隅外側にある堀切
主郭東側~北東側にある堀切または帯郭
北東の方から見た主郭内の様子
(左端が7号墳と思われる土塁)
(中央が6号墳に該当する土塁)
(右手奥が主郭南西側の土塁(4号墳または5号墳?))
正光寺の境内
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