佐野市下彦間町:正光寺・正光寺城跡・正光寺古墳群(その1)
過日,真言宗大日派・大塚山正光寺(栃木県佐野市下彦間町)を参拝した。本尊は,大日如来。
佐野新四国八十八ヶ所霊場第三十三番・佐野坂東三十三箇所観音霊場第二十四番となっている。参道をそのまま進むと,聖観世音菩薩堂に至る。この聖観世音菩薩堂が霊場となっている。
正光寺の本堂前付近には石造層塔光明真言供養塔がある。この供養塔は,佐野市の有形文化財に指定されている。
正光寺の墓地区画内には,佐野宗綱と将士の墓所がある。
正光寺の境内地は,正光寺城跡遺跡(栃木県遺跡番号5029)となっている。
佐野市のWebページでは正光寺の裏山部分だけが城跡遺跡であるかのように説明されている。この記述は,栃木県安蘇郡田沼町町史編さん委員会編『田沼町遺跡所在目録』(昭和58年3月)の記述をそのまま基礎とするものであるが,城跡と判断できる現況地形と比較して考えてみると明らかに誤っている。正光寺の境内地全体が城跡遺跡の範囲内にあると考えるのが正しい。裏山部分だけに限定されるとすれば,その範囲が余りにも狭すぎるので,館としても砦としても物理的に機能しようがない。
この点に関し,その正確性は担保されていないが,栃木県教育委員会事務局文化課編『栃木県埋蔵文化財地図』(平成9年3月)では,正光寺の境内地全体が正光寺城跡の範囲であるように図示されている。佐野市史編さん委員会編『佐野市史資料第2集 佐野市遺跡所在目録』(1972年)の中には正光寺城跡が含まれていない。
なお,一般に,正光寺城は,悪戸城とも呼ばれ,佐野国綱が築城した須花城の出城として理解されている。
また,正光寺の境内地は,正光寺古墳群(栃木県遺跡番号5019)という12基の円墳(うち6基は既に湮滅)で構成される古墳群の所在地ともなっている。収集可能な記録に基づき見学したところ,正光城の土塁跡とされている塚状地形の中に正光寺古墳群の古墳に該当するものがあると判断するに至った。
栃木県教育委員会事務局文化課編『栃木県埋蔵文化財地図』(平成9年3月)では,正光寺の境内地をぐるりと取り囲むようにして正光寺古墳群の古墳が分布しているように図示されているが,これは古墳群の範囲を示すという意味しかなく,実際の古墳の所在地とは完全に無関係な図示であり,そのために深刻な誤解の発生源となっている図示なので,可及的速やかな全面改訂が望まれる。
佐野市史編さん委員会編『佐野市史資料第2集 佐野市遺跡所在目録』(1972年)の中には正光寺古墳群が含まれていない。佐野市郷土博物館編『佐野の古墳と埴輪』(平成29年)にも正光寺古墳群が含まれていない。
正光寺を参拝した後,これらの遺跡の立入可能な部分を拝見した。一見したところ,無断立入できない場所にも遺跡の一部が存在するように見える。佐野市は,可能な限り正確な情報に修正するため,遺跡範囲の見直し作業を鋭意遂行すべきだと考える。
正光寺入口前の道路
(現代に構築された土塁かどうかは不明)
正光寺入口付近から見える景色
(寺前遺跡(栃木県遺跡番号5030)の所在地付近)
正光寺入口付近から見える景色
(須花城跡(栃木県遺跡番号5013)の所在地付近)
参道
(中央奥は聖観世音菩薩堂)
聖観世音菩薩堂
聖観世音菩薩堂前の石段
聖観世音菩薩堂前の敷石
(古墳由来石材?)
大師堂
地蔵尊
日限地蔵堂
聖観世音菩薩堂前にある手水
手水付近にある石材
(古墳由来石材?)
本堂
本堂側面
宝篋印塔
石造層塔光明真言供養塔
(背後の建物は客殿)
石造層塔光明真言供養塔の説明書
本堂前の手水
永代供養墓
樹木葬墓と阿弥陀如来
井戸跡?
六角堂(位牌安置堂)付近
歴代住職の墓所
境内で咲いていたヤマユリ
正光寺
佐野市:正光寺(しょうこうじ)城跡・須花(すばな)城跡
この記事へのコメント