相馬市坪田:高松横穴墓群
過日,都玉神社(福島県相馬市坪田)を参拝した際,同社及び相馬都胤墓所(廟所)の周辺にある高松横穴墓群の一部を見学した。ここで「一部」というのは,これらの古墳(横穴墓等)の所在地を含む周辺一帯全部は,極めて重要な遺跡包蔵地でありながら,正式の遺跡調査が実施されたことがこれまで一度もないからだ。このことは,相馬市史編さん委員会編『相馬市史4 資料編Ⅰ 原始・古代』(平成27年)の758頁にも明記されている。
そして,同書の725頁の高松古墳群の解説中には,「明治31年(1898)ごろ鉄道常磐線の敷設工事のために丘陵西側を切り崩し,その際に横穴墓が現れ,多数の玉類や刀剣類が発見された。この後,本墳を含む古墳群一帯が盗掘にあい・・・」と明記されている。
今回私が現地踏査した結果によれば,高松横穴墓群と高松古墳群とは連続しており,明確に分けることができない。相馬都胤墓所(廟所)所在地周辺もこれらの古墳群の一部として位置づけられ得る。
そして,盗掘によると推測される無残な状態となっていることは,高松横穴墓群でも全く同じだった。
このように,高松横穴墓群の現況は,かなり残念な状態となっている。可及的速やかに全面的な科学的調査の実施を要する状態にあると判断する。何もしなければ,非常に貴重な遺跡が記録化されないまま崩壊・湮滅してしまうことになるだろう。
ただし,これまでの相馬市内の遺跡調査は,県立相馬高等学校郷土研究室の高校生頼りのものが多かったようだ。相馬市には正規雇用の公務員としての十分な員数の学芸員や文化財保護担当職員と十分な金額の関連予算等が存在しなかったということなのだろうか?
もしそうだとすれば,今後も,ちゃんとした遺跡調査が実施されることが期待できない。
なお,相馬都胤墓所の背後にある山頂~尾根上付近にも古墳が存在するが,それらの古墳は,高松横穴墓群に属するものではなく,高松古墳群所在地の最西端部に位置する古墳だと考えられるので,あとで別のブログ記事で述べることとしたい。
さて,公式記録上では盗掘が著しく,詳細不明の横穴墓群だということになっているので,もともとあまり多くのことを期待せず,残骸だと確信できるものが1基分くらいでも見られれば幸運だというくらいの気持ちで現地を訪問したのだったが,実際に観て回った結論としては,見るべきものが結構多数あった。
まず,都玉神社の社殿裏側に2基分と推定される古墳奥壁部分が残されている。明確に奥壁部と視認可能なものが1基あり,その右側に残骸・断片に近い奥壁部分がもう1基分残されている。もしかすると,更に複数の横穴墓があったかもしれない。上掲『相馬市史4 資料編Ⅰ 原始・古代』では,この都玉神社の社殿裏にある岩窟が高松横穴墓中の一基であるとして,その写真を掲げている。
おそらく,現在の社殿所在地近くまで元の山の斜面があり,その場所に古くからかなり大きな横穴墓が開口していたものと推定される。
なお,社殿裏にある横穴墓中の左側の横穴墓の奥壁中央上部が少しえぐられている。
この状態が江戸時代以前から存在したと仮定した場合,もしかすると,ある時期,小仏像や燭台等を安置する仏教上の信仰場所として二次利用されていたのかもしれず,あるいは,都玉神社創建の際,旧御神体を祀るための施設として奥壁の一部を穿って祭祀場所を確保したものかもしれない・・・などと想像を廻らせた。ただし,これは,あくまでも素人の想像に過ぎない。
ちなみに,現代において,横穴墓を完全に封鎖するためにコンクリート等によって塞がれた状態であるとすれば,(現代の防空壕跡である可能性も含め)また別に考えなければならないのだが,上掲『相馬市史4 資料編Ⅰ 原始・古代』では,この点について一切触れられていない。真面目に調査する気が最初から全くなかったのだろうと推測される。
また,私自身は,鉱物調査キットを持参・携帯していなかったので,岩石サンプルの調査をしておらず,正確なことは何も言えない。
(2基分あると判断したが左端付近にももう1基分あるかもしれない)
左側の横穴墓残骸の奥壁部分
同上の左側壁残存部分
同上の右側壁残存部分
社殿裏の横穴墓所在地付近の全景
都玉神社の社殿左側(西側)から相馬都胤の墓所(廟所)に登る尾根道に入る場所の標識から南西に5mほど下った斜面に,目測で直径5~7m程度・高さ2m程度の小円墳のようなものがある。古墳時代の小円墳かもしれないし,後代の塚かもしれない。あるいは,その付近で横穴墓を造営した際に掘り出した残土を積み上げた土塊かもしれない。このブログ記事では,便宜上,「塚状部分A」と呼ぶことにする。
東の方から見た塚状部分A
尾根道を登り始めるとすぐに小円墳の真上を通るような感じになっている。外見上は,目測で直径5m前後・高さ1~2m程度の小円墳のように見える。
これもまた,後代の塚かもしれないし,または,付近にある横穴墓の造営の際に出た土を積み上げた土塊かもしれない。あるいは,更に土塁の一部かもしれない。このブログ記事では,便宜上,「塚状部分B」と呼ぶことにする。
南の方から見た塚状部分B
塚状部分B所在地から相対的な高さで5mほど登り,西側の斜面を見ると,やけにでこぼこしていることがわかる。人が入ったような痕跡があるので,それを辿って少しだけ林の中に入ってみると,非常に多数のトレンチが存在することがわかった。それほど古いものではないように見える。盗掘の痕跡であるのか,または,何らかの考古学調査の結果であるのか,全く分からない。このトレンチは,更に西の方にも存在しているように見えるのだが,危険なので途中で引き返した。
もしそれら全てが盗掘痕であるとすれば,驚くべき盗掘行為が日々繰り返されていたということになる。子々孫々まで祟りがあるかもしれない。
トレンチ痕?
トレンチ痕?
更に西側に続く斜面の様子
元の尾根道に戻り,少し登ると幾つかの小円墳様のものがあった。これらも古墳時代の小円墳かもしれないし,後代の塚かもしれないし,横穴墓を造営した際に出た土を積み上げた土塊かもしれない。
このブログ記事では,便宜上,「塚状部分C」と呼ぶことにする。
塚状部分Cの所在地付近から南東の方に降りる小路がある。この小路を降りると,都玉神社社殿裏の横穴墓の直上~北側に斜上するあまり広くない窪地状の谷地の上に至る。この場所には1基分の小円墳のようなものがある。このブログ記事では,便宜上,「塚状部分D」と呼ぶことにする。
塚状部分Cと塚状部分Dとの間に小規模な塚状地形部分がある。このブログ記事では,便宜上,「塚状部分E」と呼ぶことにする。
これらの小円墳のようなものもまた,後代の塚であるかもしれないし,または,横穴墓を造営した際に出で土を積み上げた土塊であるかもしれない。
東の方から見た窪地の全景
(中央奥は塚状部分C)
北西の方から見た塚状部分D
塚状部分D所在地付近から見た境内地
南の方から見た塚状部分D
南の方から見た塚状部分Dの近景
(中央は主体部所在地?)
南の方から見た塚状部分E
西の方から見た塚状部分E
元の尾根道に戻り,相馬都胤の墓所(廟所)とその周辺を見学した。
相馬都胤の墓所(廟所)所在地の入口付近(説明板のある場所付近)の少し南東側から別の谷地のような窪地に降りる小路がある。
こちらの谷地のような窪地は塚状部分C及び塚状部分Dの所在地から小尾根を隔てて東側にある窪地で,この窪地には,外見上は小円墳のように見える塚状部分F,塚状部分G,塚状部分Hがある。
これらの小円墳のようなものもまた,後代の塚であるかもしれないし,または,横穴墓を造営した際に出で土を積み上げた土塊であるかもしれない。
それらの塚状部分がある場所から更に降りると,子安神社の西側付近の道に出る。
(地山の一部であり,古墳ではないと思われる)
説明板の周辺にある横穴墓の残骸のように見える地形部分
説明板付近から南東の方に降りる小路
北東の方から見た塚状部分F
南の方から見た塚状部分F
南の方から見た塚状部分G
塚状部分Gの近景
南の方から見た塚状部分H
南の方から見た塚状部分Hの近景
このブログ記事で紹介した古墳(横穴墓)の可能性のある地形部分のほか,相馬都胤の墓所(廟所)の説明板近くにもそれらしいものが複数あり,かつ,地面に石室開口部と思われるものが開いていることは,都玉神社のブログ記事内で既に述べたとおり。
以上の観察の結果として,都玉神社の北側背後地全体が古墳群または横穴墓群または塚群になっていることがわかる。
当然,これらの場所の地下遺構については,既述の地下にある石室の一部が開口していると思われる場所を除き,全くわからない。また,見落としや錯覚・誤認もあるはずだ。
それらのことを全部考慮に入れた上で,古墳群の分布範囲は,上掲『相馬市史4 資料編Ⅰ 原始・古代』(平成27年)の758頁に示されている遺跡所在地範囲よりも広いと判断した。
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