佐久市田口:新海三社神社
過日,新海三社神社(長野県佐久市田口)を参拝した。
祭神は,興萩命(東本社)・建御名方命(中本社)・ 事代主命(西本社)・誉田別命(相殿)。
興萩命は,建御名方命の子とされ,「新開の神」とも「大県の神」とも呼ばれたようだ。
新海三社神社の「新海」との呼称は「新開(にいさく)」から転じたもの。「新開」は「佐久」の語源とされている。田口(臼田)の地は,佐久地方の中で初めて稲作が行われた場所らしい。つまり,新海三社神社の東本社は,佐久の地に初めて屯田して稲作を始めた祖である者または集団(一族)を神として祀る神社ということになる。
新海三社神社は,明治時代の廃仏毀釈まで,神仏習合の様式による神社であり,境内地内に隣接して神宮寺があったけれども,廃仏毀釈のため,(三重の塔を除き)神宮寺関連の建物等は破壊されてしまったようだ。現在,石の供養塔等によって神宮寺の名残りを感じ取ることができるだけとなっている。しかし,神仏習合は,(信仰上の教義としての理論的な純粋性の有無という点を一応措くと)単純素朴に,一族の祖を神として崇敬し,その霊を弔うという考え方と行為が混然一体となったもので,むしろ自然な考え方なのではないかと考えられる。
私自身は,当初は,理論的な明晰性を重視し,関連用語等も完全に峻別して使用していた。しかし,齢を重ねるにつれ考え方が変化し,現在では,混然一体のような考え方や感じ方に馴染んでしまっている。
少なくとも,古代人の精神世界を推察する場合には,そのほうが妥当性が高いと判断するようになってきている。
日本国(倭国)において仏教の理論面が明確化されるのは,おそらく,空海及び最澄の時代以降のことになるのだろうと考えられる。そして,仏教の理論面が強化された結果,神道の理論面の整備と強化も促進されたというような相互関係があることは否定しようがないのではないかと考えられる。
そのような問題はあるが,信教の自由はある。宗教学上の理論は理論として,人々の各人各様の素直な信仰心が素朴に守られる社会であり続けてほしいと思う。
新海三社神社の本殿裏の境内林内や近隣にある古墳(幸田古墳群,外九間古墳群,中原古墳群など)の中には新海三社神社と深い関係のあるものが多い。このことは,この地域の古代を知るための非常に重要なポイントになっていると考えられるだけではなく,朝廷が倭国全土で遂行した侵攻の実質を理解するためにも重要だと考える。
新海三社神社は,日本国(倭国)の歴史を考える上で不可欠の神社の1つだと言っても過言ではない。
大鳥居
参道
参道
参道
環境保全地域の指定
参道
参道脇の境内社
神宮寺跡付近
御休石
六十六部供養塔
石段前を横断する通路
境内案内図
説明板
奉納酒樽
拝殿前の石段
手水
拝殿
中本社(右手前)と西本社(左奥)
東本社
境内社(天神社)
西十二社殿
神楽殿と東十二社殿
欅の巨樹
仏塔
三重の塔
三重の塔正面
三重の塔の説明板
絹笠社の石段
絹笠社
今宮社?
社務所付近から北西に登る空堀様の尾根道
社務所脇の道祖神
駐車場と社務所
福田稲荷神社の鳥居
福田稲荷神社
荒神社の参道
荒神社の鎮座地
(古墳か?)
荒神社の社殿
荒神社周辺に散在する石材の一部
荒神社と福田稲荷神社との間の斜面
西の方から見た英田地畑古墳(湮滅)の所在地付近
北の方から見た英田地畑古墳(湮滅)の所在地付近
新海三社神社
玄松子:新海三社神社
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