佐久市田口:幸神古墳群

過日,幸神古墳群(長野県佐久市田口)を見学した。
幸神古墳群を構成する古墳は,御幸神社から東に位置する幸神地区に分布している。「幸神」は「さいのかみ」と読むようだ。
幸神古墳群に属する古墳と周辺地域にある関連古墳の詳細に関しては,長野県南佐久郡臼田町教育委員会編『臼田町埋蔵文化財調査報告書11 幸神古墳群-佐久平南限群集墳の試掘・確認調査-』(平成8年3月)がとても参考になる。このブログ記事は,基本的に,この報告書に記載されている内容と臼田町誌刊行会編『臼田町誌 第3巻 考古・古代・中世編』(平成19年)に記載されている内容を基礎としている。
幸神古墳群の1号墳~4号墳の敷地は,新海神社(長野県佐久市田口)の社地となっているようだ。

幸神2号墳は,原交差点の西約50mのところにあり,現況の墳丘が南北8.8m×東西6.7m・高さ1.2mの円墳であり,その玄室は南北2.5m×東西1.7m,羨道は2.0m×0.8mとされている。
幸神2号墳は,公道からでも立派な石室を観ることができるが,墳丘南側の空地の方からは更に良く見える。
現在,幸神2号墳の周囲には工場や住宅が建設されている結果,かつての景観は失われてしまっているが,往時においては浅間山や八ヶ岳連峰が見える場所だったようだ。
幸神2号墳は,大規模な盗掘を受けているのだが,長さ9cmの鉄鐸が出土しており,平安時代の追葬によって残された遺物だと理解されているようだ。平安時代に追送が行われたのである以上,少なくとも奈良時代頃から平安時代頃には被葬者一族が連綿としてこの地を支配し,統治していたと想像することが可能だ。

私は,以前,日光二荒山神社中宮祠で頂戴した鉄鐸(参拝客向けに頒布しているレプリカ)を護符として携帯している。
一般に,鉄鐸は,比較的長い間にわたり人々の間で信仰のために用いられてきたものなのだろうと想像されるが,より正確な理解を得るためには,倭国の銅鐸文化だけではなく,古代中国の鐸との深い関係を明確に理解する必要性がある。


DSC02352.JPG西の方から見た幸神2号墳
(奥は幸神1号墳)


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北東の方から見た幸神2号墳
(奥は幸神1号墳)


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南西の方から見た幸神2号墳


幸神1号墳は,幸神2号墳の西側に隣接している。
幸神1号墳は,現況の墳丘が南北13m×東西14m・高さ1.9mの円墳であり,奥壁から開口部までの長さ7.8m,玄室3.2×2.0m・高さ2.1m,羨道2.6×1.0m(横穴式両袖型玄門付石室)とされている。往時においては直径20m前後の円墳だったと推定されている。
盗掘があったことが明らかであるのにもかかわらず,大刀と小刀が出土している。かつてこの地に侵攻してこの地を支配・統治した武人が被葬者なのだろうと想像される。
当時,倭国の各所において天孫降臨のような軍事上・政治上の重大な出来事があり,そのような出来事が長い年月をかけて次第に北上し,そして,朝廷による全国支配が確立されたものと推測される。


DSC02399.JPG南の方から見た1号墳


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南東の方から見た1号墳


1号墳から西の方に向けて順に6号墳,5号墳及び4号墳が並んでいる。4号墳と5号墳は丁寧に整備されており,石室等を見学可能なのだが,6号墳は樹木と草木に濃密に覆われていて墳丘も石室も見えないような状態になっている。

ところで,『臼田町埋蔵文化財調査報告書11 幸神古墳群-佐久平南限群集墳の試掘・確認調査-』の58頁には,4号墳に関し,「往古には,本4号古墳の西方側に新海神社道という小さな道があり古墳に通じていたという。本古墳は新海神社の所有である。同じように幸神2号古墳の東方型にも神社道があったと伝えられている。幸神1号~4号まで神社所有の古墳であることから,古墳と神社となはんらかの関係があったと考えられる」との記述がある。非常に興味深い。

幸神古墳群の4号墳は,幸神古墳群の最西端に位置している。
4号墳は,現況の墳丘径南北7m×東西6m・高さ0.8mの円墳であり,玄室は2.45×1.6m,羨道は1.6×0.8mとされている。
小刀と刀装具,そして,墨書土器が出土しており,文化財という観点からは極めて重要な古墳だと思われる。


DSC02372.JPG西の方から見た4号墳
(右手奥の繁みのあるところが6号墳所在地)
(中央奥は1号墳)


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南西の方から見た4号墳


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南の方から見た4号墳の石室開口部付近


5号墳は,4号墳の東に隣接しており,現況の墳丘南北5.8m×7.6m・高さ0.7mの円墳であり,玄室2.45×1.6m,羨道幅0.8mとされている。


DSC02380.JPG南の方から見た5号墳


幸神古墳群の3号墳に関し,長野県南佐久郡臼田町教育委員会編『臼田町遺跡詳細分布調査報告書』(昭和63年6月)の199頁には,「遺物の規模」として「墳丘なし,墳石(玄門石か)2ヶ残る」との記載があり,また,その詳細な説明として「幸神1号墳の北方柳沢悦雄氏宅の東側隣接地にあり,現在墳丘まったく失われていて荒地となり,わずかに65cmの間隔を置いて相対する巾70cmの石が2つ残っているだけである。新海神社地である」との記載がある。

1号墳の北約60mに位置する道路脇(「さいのかみ倶楽部」の入口付近)には『臼田町遺跡詳細分布調査報告書』の199頁の詳細な説明にあるような2個の石材の特徴と一致する石材が2個並べて置かれた場所がある。
その場所は,臼田町誌刊行会編『臼田町誌 第3巻 考古・古代・中世編』(平成19年)の137頁にある古墳分布図の中で示されている3号墳所在地付近に該当する。

この道路脇に並べられた2個の石材が3号墳由来の石材なのだろう。

3号墳の所在地それ自体の現況は(まだ空地部分があるとはいえ)その大部分が宅地化しているので,3号墳それ自体は既に湮滅したのだろうと考えられる。


DSC02355.JPG道路脇に並べて置かれた2個の石材



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