つくばみらい市上平柳:間宮林蔵記念館

過日,専稱寺を参拝した後,間宮林蔵記念館(茨城県つくばみらい市上平柳)を訪問し,見学した。記念館建物の北西約50mのところに比較的広い駐車場がある。

間宮林蔵記念館の中では,間宮林蔵の非常に優れた才能が見出されて江戸で勉学することになった経緯~蝦夷地と樺太の探検~間宮海峡の発見に至るまでの解説ビデオが放映されている。治水の才に長けていた点は,熊沢蕃山と通じるところがある。伊能忠敬が完成させた蝦夷地の南半分の地図,間宮林蔵が完成させた蝦夷地の北半分の地図及び樺太の地図等が展示されている。

間宮林蔵記念館の敷地内には間宮林蔵の生家が移築・復元され,保存されている。後に付加された造作部分を除去し,間宮林蔵当時の形状に復元した建物のようだ。生家の建物内に入ることはできないけれども,戸が開放されているので,外から中を見学できる。


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間宮林蔵記念館入口付近


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間宮林蔵像


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間宮林蔵生家の説明板


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間宮林蔵の生家


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間宮林蔵生家の土間


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間宮林蔵生家の居間


間宮林蔵は,晩年に花柳病だったという見解がある。真偽のほどは知らないのだが,そのような言説が流布された一因としては,花柳界に出入りしていたからではないかと考えられる。
間宮林蔵の晩年の職務は御庭番(御用掛)であり,幕府の諜報活動に従事していた。当時の緊迫した情勢下で,花柳界から得られる情報は貴重だったのではないかと想像される。なぜならば,当然のことながら,諸藩の諜報担当の武士も頻繁に江戸に出入りしていたであろうし,彼らもまた日々死を覚悟していており,それゆえにそのような場所で遊んだと想像されるからだ(時代背景は異なるが,大石内蔵助の例もある)。
一般に,花柳界に出入りすることは,現在では不道徳なことだと考える人が少なくないかもしれない。しかし,現在の価値観や倫理観または価値尺度だけでものごとを考えていたのでは,真理に達することなど到底不可能なことで,要するに,無知蒙昧のままでこの世を去ることになる。
加えて,一般に,重要な隠密の仕事に従事すればするほど,世間の目をごまかすために,しばしば俗人や愚人を装うことがあり,また,俗人や愚人であるかのような風説を自ら流したりすることがある。そのような場合,汚名を着ることも職務の一部なのだ。
それは,自己の名誉欲や権力欲の充足だけを目的として生きるようなタイプの人には絶対に無理なことだ。そして,本当の馬鹿では御庭番(特に遠国御用掛)の職務を遂行できるはずがない。
「能ある鷹は爪を隠す」。常識だと思う。
そのように異なる価値尺度に立ち,自由自在に観点を変えて考えるようにするかどうか,または,そのような職務の本質を理解しようとするかどうかは,各人の知的能力・好奇心・世界観によって異なる。
ちなみに,本立院(東京都江東区平野)にある間宮林蔵の墓石の碑文は,徳川斉昭の筆によるものとされている。このことが何よりも雄弁に史実の一部を物語っているというのが私見だ。



 つくばみらい市:間宮林蔵記念館



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