石岡市:いばらきフラワーパークのバラ(その3)

先日,全面改装したばかりのいばらきフラワーパーク(茨城県石岡市下青柳)を訪問した。

バラの品種には様々な名前がついている。作出者が考えに考え抜いた末の命名なのだろう。中には,非常に有名な作家,音楽家,俳優等の名前を付した品種もある。毎度お馴染みの品種が多いけれども,特に音楽家の場合にはその作品のメロディを思い浮かべながら,綺麗な花を観賞して回った。

もし私に文筆の才があるのであれば,それぞれの品種の写真に洒落た小文を付そうとするかもしれない。しかし,残念ながら,そのような才はない。詩や小説については評論するための知識や感性がほとんど欠けている。
仕方がないので,音楽家の名を付したバラについてのみ,私の非常に恣意的な意見に基づく雑な散文をちょっとだけ付すことにする。

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バラ品種「ノヴァーリス」(2010年)


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バラ品種「オーナードゥバルザック」(1994年)


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バラ品種「ニコロパガニーニ」(1990年)


パガニーニは,ヴァイオリンの天才的な名手。自分の演奏技巧の素晴らしさを最も効果的に表現できるような作品を書き,自演した。そのようなタイプの作品なので芸術的な深みという点ではちょっと空疎な気分になることが多い。
フランツ・リストは,パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章の主題を用いたピアノ曲を書いた。私は,リストのピアノ曲の方は,比較的好んで聴く。ピアノの音の方が「鐘」を連想させやすいからかもしれない。ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番イ短調の第1楽章とモーツアルトのピアノ協奏曲第24番KV491の第3楽章を聴いているときにも似たような印象を受けることがある。個人的には,モーツアルトの作品のほうが超越的に優れており,真の天才の作品だと感じる。ちなみに,ヴィオッティの協奏曲第22番に関しては,グリュミオーのヴァイオリン独奏,コリン・デイビス指揮によるロンドン交響楽団による演奏が好きだ。モーツアルトのピアノ協奏曲第24番に関しては,あまたの名演があるけれども,内田光子のピアノ独奏,ザンデルリンク指揮によるベルリン交響楽団の演奏に特に感銘を受ける。
現代において最も注目されているヴァイオリン奏者の1人であるヒラリー・ハーンは,パガニーニが使用したヴィヨーム製ヴァイオリン(カノーネをヴィヨームが複製したもの)を用いて演奏しているとのこと。ヒラリー・ハーンは,実に巧い。演奏を録画したビデオを視聴していると,余裕をもって周囲を見渡しているところがちょっと恐怖を感じるくらいだ。きっと,将来,しばしば弾き振りをするようになるだろう。そのために優れた指揮者の指揮法を吸収し続けているのではないかと思う。ジョシュア・ベルも非常に巧いのだが,その演奏は,とても好きになれない。感性が異なり過ぎるし,その演奏からは知性を感じることができない。ただし,私の方に知性がないというだけのことかもしれない。

ちなみに,私が最も愛好するヴァイオリン協奏曲は,ブラームスのヴァイオリン協奏曲だ。素晴らしいの一言に尽きる。
次に愛好しているのは,シベリウスのヴァイオリン協奏曲だ。私も弱き人間の一員なので,様々な理由で落ち込むことがある。そういうときにシベリウスの協奏曲を聴き,元気を取り戻し,非常に困難な課題を乗り越えるために萎れかけた自分の気持ちを奮い立たせ,再度挑戦する。そのようなことを繰り返してきた。
そして,感情的に盛り上がりたいときは,ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を聴く。とにかく甘美さという点では頂点にある作品の1つだと言えると思う。
その次にサンサーンスのヴァイオリン協奏曲第3番,チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲等が来る。
どの曲も難曲中の難曲なので,なかなか完璧な演奏というものがない。幸いなことに私は音楽評論家ではないので,その時の気分に応じて,聴きたい演奏家のCDを聴いている。


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バラ品種「ヨハンシュトラウス」(1996年)


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バラ品種「ヨハンシュトラウス」(1996年)
(コハナバチの一種)


ヨハンシュトラウス1世はワルツの父と呼ばれ,ヨハンシュトラウス2世はワルツ王と呼ばれている。ヨハンシュトラウス1世が書いた曲ではポルカ「クラップフェンの森で」が一番好きな曲。ヨハンシュトラウス2世が書いた曲ではオペレッタ「こうもり」が一番好きな曲だ。
ところで,私は,欧州のオペレッタと米国のミュージカルの区別をつけることができない。ヨハンシュトラウス親子が書いたとても親しみやすい情景音楽と現代の映画音楽との差異をみつけることもできない。
しかし,当時の欧州人達の多くはそうではなかったようだ。
例えば,作曲家コルンゴルト(Erich Wolfgang Korngold)は,亡命先である米国で(食べていくために)映画音楽を書き,絶賛を博した。第二次世界大戦後,欧州に戻ったけれども,「映画に魂を売り渡した下劣な作曲家」との評価を受け,失意のうちに再び米国に渡航し,不遇のまま死去した。
コルンゴルトの作品の中には,確かに大衆受けしやすいような作品がある。しかし,大衆受けしやすいという点において,ヨハンシュトラウス親子とどのように違うのかわからない。あまりに甘美なメロディに溢れる「メリーウィドウ」を書いたフランツ・レハールではもっとそうだ。

けれども,コルンゴルトの室内楽作品を聴いてみると,本当は,実に先端的で研ぎ澄まされた音楽を創り出すことのできる天才作曲家だったということを知ることができる。

結局,一般聴衆の多くは,自分自身の感性を信じて,自分だけの音楽観賞をすることができるわけではなく,誰か有名な音楽評論家の言説を鵜呑みにし,そのように感じるようになってしまうものだということを示す非常に良い実例のように思われる。偏見と先入観と固定観念と嫉妬が天才を殺してしまうのだ。

あくまでも一般論として,音楽評論家が自分の主観をぶちまけるのは表現の自由そのものなのだが,自分自身が作曲家としての天才的な才能のない評論家の言説は,所詮,その程度のものでしかないということも知らなければならないと常に思う。



 いばらきフラワーパーク
 https://www.flowerpark.or.jp/

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