石岡市:染谷古墳群再訪(その1)
過日,染谷古墳群(茨城県石岡市染谷)を再訪した。この古墳群の所在地は何度か訪問している。今回の訪問は,これまで見学していなかった古墳を見学し,湮滅古墳を確認するのが目的だった。
染谷古墳群の詳細な分布図は,佐々木憲一・田中裕編『常陸の古墳群』(六一書房)の125頁に収録されている。削平等により既に地形が変わっている場所もある。しかし,一般に,資料上の記述と現地踏査による実見の結果との一致・不一致を確定しないと,当該資料の信頼性を評価できないので,地形の変化や古墳の湮滅を含め,現況を可能な限り正確に把握することは大事なことで,そうしなければ先に進むことができない。
なお,茨城県教育委員会編『重要遺跡調査報告書Ⅲ』(昭和61年3月)の164頁には染谷古墳群の解説があり,同頁の中には「確認調査などを実施して,範囲・規模などを把握するなどして,また,標柱・説明板などを設置して,周知を図ることが望まれる」との注記があるが,実際には,常陸風土記の丘公園内に総括的な標識が1つあるだけで個々の古墳に標柱等が立てられてはいないというのが現状なので,今回の見学の結果の中には誤解や誤認等が含まれているかもしれない。
2001年までの発掘調査等の結果に関しては,石岡市教育委員会・石岡市遺跡分布調査会編『石岡市遺跡分布調査報告書』(2001年)の7~8頁に記述がある。ただし,その後発見された古墳等を含め,古墳の付番に変動があるようなので,このブログ記事では,『常陸の古墳群』の125頁にある分布図及び付番に従うことにする。
一般に,本来,名寄せ作業とその結果のデータベース化及びデータの公開は,所管教育委員会(異なる複数の教育委員会が関連するときは上位組織)が責任をもってやるべきことなのだが,たぶん,どの教育委員会にも必要な人材・施設・機器及び予算が欠けているので,実現できない。専門研究者にも情報学の基礎的素養のある者が乏しいので,識別子の重要性に関する認識に問題があることが決して少なくない。
染谷古墳群に関しても,染谷古墳群を構成する古墳の中には「道祖神古墳群」と呼ばれた古墳群に属する古墳として分類されていた古墳が含まれているのだが,染谷古墳群の古墳としての付番と道祖神古墳群の古墳としての付番との対応関係を正確に整理し,明確に名寄せした公式報告書等の資料は,現時点では存在しないようだ(『常陸の古墳群』の126頁にある一覧表では道祖神古墳群としての古墳番号が付記されているが,それが網羅的なものかどうかは不明)。
以上を前提にした上で,染谷古墳群の1号墳(墳丘長18.5mの方墳)及び2号墳(墳丘長14.7mの方墳)は,常陸風土記の丘公園の駐車場敷地内に所在していたが,発掘調査の後,現在では湮滅している。2号墳所在地の近くに低い築山があり,その上に石碑が立てられているけれども,これは墳丘の残存物ではないだろうと思う。
染谷古墳群の3号墳(直径10mの円墳)は,曲がり屋を二次利用した食事処の建物の南側に所在する。
一般に,食事処裏(南側)に設置されているクリーム色の塀のすぐそばの場所にある地膨れのような場所を3号墳所在地として理解している人が多いように思うけれども,それは3号墳ではない。3号墳は,その場所から南東10mほどのところにあり,明確な塚状地形となっている。その墳丘裾付近には遺跡所在地を示すためのものと推測される杭が打たれている。
染谷古墳群の4号墳は,染谷古墳群の標識と説明板が立てられている場所にある。この古墳は,直径15mの円墳とされており,前方後円墳の可能性が指摘されてきた。
染谷古墳群の5号墳は,4号墳の南に隣接している。5号墳は,直径13mの円墳とされている。
染谷古墳群の5号墳の東に6号墳(直径6.2mの円墳)が所在していることになっているのだが,見つけられなかった。
6号墳所在地の現況は山林と雑種地との境界付近の藪であり,現存しているとしても見つけるのが困難な古墳なのではないかと思うけれども,湮滅している可能性が高い。
なお,6号墳所在地近くに古墳または塚の残骸のように見える地形部分がある。しかし,これは,過去の耕作等の結果生じたもので,古墳または塚の残骸ではないと考えられる。
常陸風土記の丘公園
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