高萩市下手綱:松岡城と丹生神社

過日,竜子山城とも呼ばれる松岡城(茨城県高萩市下手綱)を見学し,その城跡内にある丹生神社を参拝した。

松岡城跡は,竜子山のほぼ全域に及ぶかなり大きな城跡のようなのだが,現時点において容易に散策可能な場所は限られている。史跡公園として整備されている場所を中心に,丹生神社周辺及びその上の方にある御殿跡とされる場所などを見学した。

松岡城跡及び中山氏に関しては,高萩市教育委員会編『高萩市の史跡・文化財』(平成15年)の6~10頁に詳細な解説がある。


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松岡城跡の公園


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竜子山城(松岡城)址の説明板


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松岡七賢人と松岡の歴史の説明板


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堀跡


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御殿跡付近に登る山道


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御殿跡付近


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籾倉跡方面に渡る橋


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堀跡?


丹生神社は,中山氏の氏神として祀られた神社。祭神は,丹生都比女命。
丹生神社拝殿の額には「三神社」と記されている。
松岡藩の藩主・中山氏は,武蔵七党・加治氏の流れを汲む。加治氏は,高麗五郎経家を祖とする。高麗五郎経家は,宣化天皇の後裔である多治比古の子孫とされている。また,『高萩市の史跡・文化財』の11頁では,「中山氏の遠い祖先が紀州丹生川流域の天野村に丹生都比女命を祀ったのが起源」としている。つまり,武蔵丹党の祖先の本拠地は紀州にあったということになりそうであり,しかも,「高」が「天」と同じ意味で使用されていたとも考えられる。


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鳥居


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拝殿


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本殿


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本殿側面


加治氏の祖である高麗五郎経家の「高麗」と蘇我高麗の「高麗」との関係は不明。
一般に,古代の蘇我氏の蘇我高麗(蘇我稲目の父)における「高麗」は,古代朝鮮半島において新羅國の後の高麗國が立国されるよりもはるかに前の時代の名前なので,新羅國の後の高麗國とは完全に無関係であり,むしろ,高句麗國の所在地の方向(スキタイの子孫の支配地,西域諸国またはバクトリア等の方向)を指す呼称だったと考えられる。
方位を示す概念としての「高麗」は,漢帝国が滅んだ後においても漢帝国が使用した文字を「漢字」と呼び,唐帝国が滅んだ後においても「中国」の方向を「唐」と呼んだのと同じ。無論,時代により,「高麗」が高句麗國または高麗国それ自体を指すこともあるかもしれないが,高句麗國が滅んで契丹國の時代以降になっても,そのあたりの場所またはその方向を高句麗または高麗と呼ぶ慣習があると考えるしかない。現在,「高麗人参」というものが売られているが,高麗国は存在せず,朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国が存在する。「高麗人参」は,中国歴代の方書(本草書)では「人参」と呼ばれているものの一種で,ウコギ科のトチバニンジン(Panax japonicus)の原種及び近縁種をその原料としている。トチバニンジンは,徳川吉宗の時代に清または李氏朝鮮から輸入された原種から改良された栽培品種の子孫ではないかと考えられる。一般に,人為的な改良品種の場合,通常のDNA解析で使用される突然変異発生確率の推測値(数値)は完全に無意味なものとなる。
一般に,武蔵の高麗氏は,高句麗からの渡来人を祖とするとされているけれども,実際には,高句麗遺臣を多数含む契丹國からの渡来人の方が圧倒的に多かったと考えられる。また,これまでの古代人骨のDNA解析結果を踏まえると,その主要な実質的構成要素は,古代スキタイ系の武人諸族の後裔であった可能性がある。明示で契丹の王統を祖とする氏族が日本国内に存在するのかどうかは浅学にして知らないが,契丹國及びその所在地を示す方向も(惰性的に)「高麗」と呼ばれ続けた可能性が非常に高い。
中国の史書等における「高句麗」との名称は,当時の中華帝国が蔑称として「句」を入れたためにそのように記録されただけであり,「高麗」とするのが正しいのだろうと思う。また,「麗」は「羅または原(國)」と同じであり,結局,「高麗」は,「高氏の国」という意味しかなかったと理解するのが合理的だと考えられる。
当時における中華帝国の傲慢な視点に立って想像してみると,「句麗」とは,「蛮族のくせに立派な國のように振る舞っている」という根拠のない差別的な感性と,(現実には高句麗が軍事強国であり,唐帝国等の諸王朝にとって深刻な脅威であったことから)ある種の恐怖感とが混在した微妙な心情を示すものかもしれないと思う。



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