高崎市吉井町:辛科神社
2020年12月のことだが,辛科神社(群馬県高崎市吉井町神保)を参拝した。祭神は,須佐之男命。五十猛命を配祀している。また,多数の神を合祀している。
辛科神社は,大宝年間(701年)に新羅から来た渡来人によって創祀された神社とされている。
ここでいう新羅とは,(江戸時代の清朝の時代になっても中国のことを「唐」と呼んだのと同じように,あるいは,非常に古い時代に漢が滅んでいるのに,楽浪郡や帯方郡を介して倭国に伝った文字が「漢字」として現在でも使用されているのと同じように)単に方角または特定の地理的範囲を示す概念に過ぎないのであり,歴史上の新羅という国名とは無関係と理解するのが正しい。
五十猛命は,須佐之男命の子であり,大屋彦神と同一神。須佐之男命と五十猛命は,高天原を出た後,朝鮮半島に立ち寄ったが,ここには住みたくないと考え,海を渡って倭国に渡来した親子神とされている。つまり,辛科神社の祭神(須佐之男命と五十猛命)は,古代朝鮮系ではない。
辛科神社は,是非とも参拝したい神社だと思っていたけれども,なかなかその機会がなかった。準備不足という面もあった。私の知り合いに辛科神社の氏子総代中の1人の方の子息の方があり,中途半端な勉強をしただけで参拝したくはないという気持ちもあった。
辛科神社には,多胡碑の台座がある。しかし,その台座の上には多胡碑の実物ではなくレプリカが載せられている。
現在,辛科神社の境内にある多胡碑がレプリカとなってしまった経緯については,引き続き研究中。
どの見解が正しいかは別として,一般論として,台座だけがあり,その上には何も載せられていない状態で何百年もの間崇敬し続ける氏子などというものは存在し得るのだろうか?
他方で,現在の多胡碑所在地では台座部分がコンクリートで固められており,台座石が存在するのかどうかさえも判然としない状態となっている。
なお,過去における模刻とされる別バージョンの多胡碑が他の場所にもあるので,多胡碑は,古くから貴重な石碑だということが理解されていた石碑だということだけは確実だろうと思われる。
それはさておき,辛科神社の社殿は,予想以上に派手なものだったので,びっくりした。比較的最近になってそのようになったものかもしれない。
随神門の中には神獣の像が安置されている。一般には狛犬とされているのだが,たぶん,麒麟のような古代インドから古代中国に伝わって様式化された神獣の像なのだろうと思う。
辛科神社の標石
鳥居
随神門
左側の神獣
右側の神獣
拝殿
本殿
本殿の彫刻(一部)
本殿の彫刻(一部)
本殿の彫刻(一部)
社殿側面
由緒書
由来等の説明書
説明板
説明板
多胡碑(レプリカ)
境内社(八王子社・石神社・若宮社・大山咋社・稲荷社・八幡社・南方社)
神楽殿
手水
裏参道
社務所
須佐之男命と五十猛命が倭国にやってきた時代は,多胡碑に記されている多胡郡が設置された和銅4年(711年)よりもはるか昔のことだ。その頃,地球上には新羅国が全く存在していない。『魏書』の「東夷伝」の時代でも帯方郡の南に三韓國が存在していたという記録しかなく,そこから海を隔てて邪馬台国のある倭国が存在したということになっている。
大國主の時代は中国の周末~戦国時代~秦・漢の時代のいずれか(おそらく後漢の時代)に相当し,須佐之男の時代は中国の三国時代頃に相当するのではないかというのが現時点における私見だ。
一般に,須佐之男命と五十猛命がやってきた時代の後の時代にやってきた亡命渡来人である古代中国諸国の諸公(王侯貴族等)とその一族らも,同じだったのではないかと想像される。
それらの渡来人は,同質ではなく,多種多様だったと想像される。現代の感覚からすれば,現代において理解されているような意味での「漢族」のような容姿をした人々を想像しやすいかもしれない。
しかし,三国時代~南北朝の時代には西域から様々な王族が移動してきて中国大陸のあちこちに割拠していたのであり,隋・唐の時代になっても武人豪族,高級官僚や大富豪の中には,「胡人」と呼ばれた人々が多数存在した。そのように理解しなければ,安禄山の乱(安史の乱)として記録されている動乱が発生し得た社会基盤を理解することができない。当時における「胡人」の中には,(現代のトルコ半島付近が故郷であった人々を含め)ギリシア人の子孫や(古代ペルシア人の子孫を含め)バクトリア人も多数含まれていた可能性が高いと考える。
文字史料に記されている事実の問題としては,日本国の古代の高僧の中にインド等から渡来した人が含まれていたし,考古学の成果として,飛鳥時代~奈良時代にはペルシア系の人々が多数渡来していた可能性が高いと認識されているので,文字記録化されていない暗数のような人々の数は相当多数に及んだと理解するほうが合理的だと思われる。
「胡人」と同様のことは,漢代において「匈奴」と呼ばれた人々についても言うことができる。少なくとも,彼らの文化は,スキタイの影響を受けている,または,スキタイの子孫そのものとでもいうべきものだったと理解したほうが合理的だと思われる。「匈奴」の「匈」や「契丹」の「契」は,当時の発音におけるスキタイの漢音表現ではないかとも考えられ得る。
日本人の遺伝子の中に意外と多くのコーカソイド的遺伝子が含まれていることが既に知られている。その原因は,このような胡人が長い期間にわたり渡来人としてやってきて在来の人々と混血したことに起因するのではないかとも考えられ得る。
大國主の時代は中国の周末~戦国時代~秦・漢の時代のいずれか(おそらく後漢の時代)に相当し,須佐之男の時代は中国の三国時代頃に相当するのではないかというのが現時点における私見だ。
一般に,須佐之男命と五十猛命がやってきた時代の後の時代にやってきた亡命渡来人である古代中国諸国の諸公(王侯貴族等)とその一族らも,同じだったのではないかと想像される。
それらの渡来人は,同質ではなく,多種多様だったと想像される。現代の感覚からすれば,現代において理解されているような意味での「漢族」のような容姿をした人々を想像しやすいかもしれない。
しかし,三国時代~南北朝の時代には西域から様々な王族が移動してきて中国大陸のあちこちに割拠していたのであり,隋・唐の時代になっても武人豪族,高級官僚や大富豪の中には,「胡人」と呼ばれた人々が多数存在した。そのように理解しなければ,安禄山の乱(安史の乱)として記録されている動乱が発生し得た社会基盤を理解することができない。当時における「胡人」の中には,(現代のトルコ半島付近が故郷であった人々を含め)ギリシア人の子孫や(古代ペルシア人の子孫を含め)バクトリア人も多数含まれていた可能性が高いと考える。
文字史料に記されている事実の問題としては,日本国の古代の高僧の中にインド等から渡来した人が含まれていたし,考古学の成果として,飛鳥時代~奈良時代にはペルシア系の人々が多数渡来していた可能性が高いと認識されているので,文字記録化されていない暗数のような人々の数は相当多数に及んだと理解するほうが合理的だと思われる。
「胡人」と同様のことは,漢代において「匈奴」と呼ばれた人々についても言うことができる。少なくとも,彼らの文化は,スキタイの影響を受けている,または,スキタイの子孫そのものとでもいうべきものだったと理解したほうが合理的だと思われる。「匈奴」の「匈」や「契丹」の「契」は,当時の発音におけるスキタイの漢音表現ではないかとも考えられ得る。
日本人の遺伝子の中に意外と多くのコーカソイド的遺伝子が含まれていることが既に知られている。その原因は,このような胡人が長い期間にわたり渡来人としてやってきて在来の人々と混血したことに起因するのではないかとも考えられ得る。
高崎市:辛科神社
玄松子:辛科神社
[追記:2022年12月20日]
その後の調査結果等を踏まえ,本文の一部を修正し,参考サイトのULRを最新のものに改めた。
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