茨城県稲敷郡阿見町塙:大塚古墳石室天井石など
過日,阿見町君原公民館(茨城県稲敷郡阿見町塙)を訪問した。
何も言わなくても大丈夫だろうと思いはしたけれども,念のために公民館の事務室に寄り,近隣の遺跡を見学したいので駐車所にクルマをとめておきたい旨を告げた。何も問題なく快諾を得た。
君原公民館の敷地は,旧君原尋常高等小学校の敷地だった場所で,その敷地を転用して現在の公民館の敷地としている。旧君原尋常高等小学校だった頃の名残りとしては,正門が残されているほか,正門近くに学校と関連する石碑がある。その石碑の碑文と説明板を読んでみると,「地元に長く暮らしていなければわからないような面倒なことが結構たくさんあったのだ」ということを知ることができた。
趣味の案件:阿見町大塚古墳移設石室天井石
https://ankenna.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
埼群古墳館別館:阿見町大塚古墳
http://tanbouki.tea-nifty.com/tanbou/2020/04/post-1d4abb.html
何も言わなくても大丈夫だろうと思いはしたけれども,念のために公民館の事務室に寄り,近隣の遺跡を見学したいので駐車所にクルマをとめておきたい旨を告げた。何も問題なく快諾を得た。
君原公民館の敷地は,旧君原尋常高等小学校の敷地だった場所で,その敷地を転用して現在の公民館の敷地としている。旧君原尋常高等小学校だった頃の名残りとしては,正門が残されているほか,正門近くに学校と関連する石碑がある。その石碑の碑文と説明板を読んでみると,「地元に長く暮らしていなければわからないような面倒なことが結構たくさんあったのだ」ということを知ることができた。
旧君原尋常小学校の敷地内には,かつて,大塚古墳と呼ばれる古墳があった。かなり大規模な古墳だったと推定されており,阿見町史編さん委員会編『阿見町史』(昭和58年)の73頁によれば,『阿見町史』が編纂された当時においては,塙地区の各所に石室材が点在していたとのことで,同頁にその石材の図がある。君原公民館の近くには大塚古墳のほか,入谷津古墳群という3基の円墳で構成される古墳群があったようなのだけれども,1号墳は既に湮滅している。『阿見町史』の74頁によれば,2号墳と3号墳はどちらも小さな古墳であり,特に3号墳はもともと墳丘がほとんどないようなものだったようだ。現時点では,所在地付近を探しても明確に墳丘と判別可能なものが何も見当たらないので,いずれも墳土がなくなってしまったのだろうと思う。
君原公民館の建物玄関脇には,大塚古墳の石室天井石とされる石材が屋外展示されており,その説明板の中には,この場所で保存・展示されることになった経緯が記されている。
君原公民館の建物玄関脇には,大塚古墳の石室天井石とされる石材が屋外展示されており,その説明板の中には,この場所で保存・展示されることになった経緯が記されている。
この天井石の左隣には,細長い石碑が横倒しになって展示されている。この石碑は,元は塙不動尊の境内に立てられていたものとのことなのだが,倒れたために捨てられそうになったところを公民館前に移動して保存することになったものだそうだ。
石碑の碑文は,日露戦争中に遼陽付近で砲20門を装備する露軍騎兵部隊と遭遇して戦闘中に小銃弾が頭部を貫通して戦死した舘野桂治伍長の上官から舘野桂治伍長の父に宛てた書簡の文面を刻んだもの。
現在では「騎兵」と耳にしても「古臭い」としか感じない人が多いかもしれない。しかし,日露戦争当時としては,軽山砲を装備して攻撃力を強化し,迅速な攻撃・奇襲や偵察活動が可能な騎兵部隊は,一般に,かなり脅威度の高い部隊だったと考えられる。第2次世界大戦当時の部隊組織で言えば,電撃戦を遂行可能な機甲部隊のようなものとして理解するとも可能だろう。日露戦争当時の日本軍には秋山好古の騎兵部隊があった。
この石碑に刻まれている日本軍部隊(歩兵第16連隊第6中隊先鋒黒沢支隊)の詳細は知らない。ただ,文面からすると,露軍騎兵部隊と遭遇して戦闘状態となった部隊は,露軍の動向を偵察しつつ本体の行動を掩護するために行動していた比較的小規模な部隊だったと推定され,日本軍本隊の前衛部隊として露軍騎兵部隊を攻撃・撃退すべく,激しい戦闘になったものと想像される。交戦していた露軍部隊は,日本軍の大規模な本隊が接近しつつあることを察知し,退却を決定したのではなかろうか。
碑文に刻まれた書簡は,文面それ自体としても,とても立派なものだと思う。当時の部隊長クラスの軍人が本当に文武両道だったということを知ることのできる大事な資料の1つでもある。
舘野桂治伍長は,きっと,この上官から可愛がられていた兵士だったのだろうと思う。
読んでいて涙が出そうになった。
石碑の碑文は,日露戦争中に遼陽付近で砲20門を装備する露軍騎兵部隊と遭遇して戦闘中に小銃弾が頭部を貫通して戦死した舘野桂治伍長の上官から舘野桂治伍長の父に宛てた書簡の文面を刻んだもの。
現在では「騎兵」と耳にしても「古臭い」としか感じない人が多いかもしれない。しかし,日露戦争当時としては,軽山砲を装備して攻撃力を強化し,迅速な攻撃・奇襲や偵察活動が可能な騎兵部隊は,一般に,かなり脅威度の高い部隊だったと考えられる。第2次世界大戦当時の部隊組織で言えば,電撃戦を遂行可能な機甲部隊のようなものとして理解するとも可能だろう。日露戦争当時の日本軍には秋山好古の騎兵部隊があった。
この石碑に刻まれている日本軍部隊(歩兵第16連隊第6中隊先鋒黒沢支隊)の詳細は知らない。ただ,文面からすると,露軍騎兵部隊と遭遇して戦闘状態となった部隊は,露軍の動向を偵察しつつ本体の行動を掩護するために行動していた比較的小規模な部隊だったと推定され,日本軍本隊の前衛部隊として露軍騎兵部隊を攻撃・撃退すべく,激しい戦闘になったものと想像される。交戦していた露軍部隊は,日本軍の大規模な本隊が接近しつつあることを察知し,退却を決定したのではなかろうか。
碑文に刻まれた書簡は,文面それ自体としても,とても立派なものだと思う。当時の部隊長クラスの軍人が本当に文武両道だったということを知ることのできる大事な資料の1つでもある。
舘野桂治伍長は,きっと,この上官から可愛がられていた兵士だったのだろうと思う。
読んでいて涙が出そうになった。
趣味の案件:阿見町大塚古墳移設石室天井石
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埼群古墳館別館:阿見町大塚古墳
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