筑西市甲:慶林寺跡と古墳(地下式石棺)

過日,曹洞宗・鳳来山慶林寺跡(茨城県筑西市甲)を訪問して薬師堂を参拝し,境内地内に移築・保存されている薬師町古墳石棺を拝見した。

慶林寺は,筑西市(下館)の中心部の高台にあった寺院で,大同年間に創始された古刹だったのだが,後に曹洞宗に改宗となり,更に明治2年に神仏分離により廃寺となり,現在では薬師堂だけが残されているとのこと。この薬師堂には藤原秀郷が奉納したとされる金堂十二神将があったらしい。もし明治政府の強引な政策がなければ,現在でも古くからの寺院の姿を目にすることができたかもしれず,残念なことだと思う。

薬師町古墳は,野殿古墳(茨城県筑西市野殿)と同一の構造をもつ地下式の古墳なので,もともと墳丘がない。薬師町古墳は,現在の所在地とは別の場所で発見され,人骨や刀子等が出土したが,古墳の地下式竪穴石室を保存するため,現在の場所に移築・復元されたようだ。その保存場所は,崩壊地である崖の縁にあるので,いずれ保存場所が全体として崩れ去る危険性はあると思った。

石室の前には標識があり,石室の上には覆屋がある。ただし,石室には蓋がしてあり,加えて周囲に笹が繁茂して石棺の上を蔽うようになっていたので,石棺の中を見ることができなかった。


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参道にあたる階段


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薬師堂


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薬師堂の説明板


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藤原秀郷公遺跡の碑


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庚申塔など


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石棺が保存されている場所(中央の覆屋の下)


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石棺が保存されている場所を横から見た様子


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石棺


茨城県内では他にも地下式の石室が発見されている。他方,関東地方においては,墳丘墓が主流となる時代以前には地下式の石室をもつ墳墓がかなり多数存在していたことが既に判明している。

大型の墳丘墓が主流となる時代とそれが次第に衰退する時代との間にはかなりのひらきがあるけれども,結果論としては地下式の墓地様式に戻ったということができ,その間に本当に文化的な断絶が存在したのかどうか検討すべき余地はあるのではないかと思う。



 筑西市:薬師町古墳



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