下野市薬師寺:藤麿墳
過日,藤麿墳(栃木県下野市薬師寺)を見学してきた。御鷲山古墳の少し南のところにある路傍に所在する。「藤麿」は,実名ではないだろうと思う。そのままだと「藤の殿様」程度の意味しかない。もしかすると「藤原○麻呂」を省略したものかもしれず,「麿」は「古麻呂」を省略したものかもしれないが,今となっては証明のための手段・方法が全くない。現存するのは,「藤麿」の墓所があったことを後世に残すために江戸時代に建立された石碑のみ。
説明板によると,藤麿の墓を設けたのは,藤麿の子である勝道上人とのことだ。当時,トップクラスの権威のあった下野薬師寺の境内に埋葬できたのだから,相当の権力者だったと考えられる。また,勝道上人は,日光山(四本龍寺)の開基者だとされている。日光の寺社と下野薬師寺との政治的・軍事的な関係を理解する上で極めて重要な事績の1つだと言える。当時の高僧は,いざとなれば甲冑に身を固め,軍司令官または部隊長として出陣したものと推定される。下野薬師寺は重要な仏教施設であると同時に軍事基地の一種でもあり,日光山はその出城のような役割を果たすものだったと理解することは可能な範囲内にある。日光山は,おそらく,朝廷の権力が関東地方に及びはじめた頃には既に砦のような役割を果たしていたのだろう。史書には記されていない抗争も多々あったと考えられる。「四本」の意義には諸説あるが,仮に「四天王」と同義であるとすれば,武人の姿をした仏を示すことになる。ここでもまた,ジョルジュ・デュメジル(Georges Dumézil)が述べるような諸要素が合体した思想のようなものを想起すべきである。後の時代の道教との混合であると理解されている「青面金剛明王」においては,仏の武人的要素が特に強調されている。古代において,軍事的な実力をもたない仏寺は,略奪され,破壊されるのみである。
薬師寺八幡宮の由緒書によれば,前九年の役の際に源頼義が薬師寺八幡宮で戦勝を祈願して出発した後,薬師寺八幡宮の地において,源頼義の後続軍と賊軍(安倍氏の軍?)との間で合戦があったとのことだ。真偽のほどはよくわからない。しかし,史書に書かれていないような複雑な歴史的出来事があったことは疑いようがないのではないかと思う。そもそも前九年の役は藤原某等の謀略によって開始されたという見解がある。都に住むことに慣れ,荘園等の在地の管理・支配を直接に行うことのない権謀術数だけの貴族のやりそうなことなので,真実であるかもしれないが,これまたよくわからない。確かなことは,そうやって在地の支配権をもつ武人の頭領を「あごで使う」ようなことばかりしていたから,貴族階級としての生き残る道を自ら絶ってしまったということだ。奈良時代~平安時代初期の貴族は,都に上屋敷をもち,優雅な生活を送っていても,本当は現実に地方の頭領であり,軍事的実力をもった武士の頭領であり,朝廷から命ぜられれば都に出でるというような人々だったと考えられる。このことは,江戸時代においても基本的には変わらない。鎌倉幕府が成立する前後の時期以降,経済的基盤である荘園の現実的支配権と武力をもたない貴族は,何らかのかたちで実力者に経済的に寄生する以外に生存の方法がなくなってしまった。
現代の社会でも過去の栄光をひけらかすだけの能力しかもたない人々がいくらでもいる。同じ運命をたどることになるのだろう。
藤麿の石碑をながめながら,そのように思った。
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