水瓶

綿貫観音山古墳(高崎市綿貫町)からは中国製と推定される水瓶が出土している。この水瓶は,法隆寺・木造観音菩薩立像(国宝)が左手に下げている瓶とも酷似している。私見によれば,瓶を手に下げる観音は,聖杯を手にする帝王または釈尊の像と(観念上)対をなすもので,宗教上の意味合いだけではなく,ある種の政治的意味合いももつものだと考える。聖杯を手にする帝王というモチーフは,中央アジアの石人や中国西域の遺物等を含め,かなり広範な領域において普遍的に見られたものだろうと思う。水瓶は,日本では珍しいものとされているけれども,古代の中国ではどうなのかについて興味をもち,過日,国立博物館を訪問し,類似のものを見てきた。結論として,固定観念的または普遍的なものとして,瓶というモチーフが存在したと確信できる。

ただし,いろいろと考えている間に,この瓶は,本来は,水ではなく,葡萄酒を入れたものかもしれないと思うようになった。おそらく,古代のケルトまたはスキタイの時代から存在していた文化の一種のようなものだろう。古代仏教の実態について,現代における仏教教義を墨守することによる固定観念を乗り越えるべき時期が来ている。


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黒褐釉瓶(北朝~隋時代・奥田誠一氏寄贈)


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十一面観音龕(唐時代・細川護立氏寄贈)


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如来三尊仏龕(唐時代・細川護立氏寄贈)


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如来三尊仏龕(唐時代)


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如来三尊仏龕(唐時代)


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葡萄収穫(2世紀・クシャーン朝)


綿貫観音山古墳出土の瓶の原産地については,北斉(鮮卑系の高氏)とする見解が多い。仮にそうであるとして,北斉から直接にもたらされたものだろうと思われる。北斉では鮮卑系武人と漢人系文人との権力争いが続いた。その結果,北斉は,北周に滅ぼされてしまうのだが,そのような混乱期に倭国に移住した鮮卑系軍事貴族が多数存在したのではないかと想像される。当時の倭国にとって,中国情勢の変化は倭国それ自体の死活問題の1つでもあったので,そのような貴族の移住を受け入れ,情報収集に努めていたということが十分に推測可能である。

北斉を滅ぼした北周と南朝の陳は,その後,隋に滅ぼされる。古代中国における北魏~隋の時代は,倭国において大彦系が優勢だった時代(蘇我氏が優勢だった時代・古墳時代)と一致する。

隋が滅んで唐が建国され,対唐戦において倭国が敗北した前後の時期において,倭国(日本国)においては,明治維新と同様の重大な政変が発生した。その後の明の顕著な衰退~清の建国の時期において,日本国においては戦国時代となり,徳川幕府が成立した。

古代中国の北魏の建国の前後の時期にも,倭国内において重大な政変が存在したことが推定される。

余談だが,国立博物館に収蔵されている釈迦像や菩薩像の顔のかたちは,それぞれ異なっているが,同じものもある。何らかの手本に基づいて作成されたものもあると推察される。しかし,石像等に関しては,寄進者である(中国の文物に関しては,作成当時の中国内のいずれかの地域の)支配者の顔をモデルにしているという仮説は十分に成立可能なのではないかと思う。また,そのれらの釈尊像等の中には現代の日本国に存在する人物とほぼ同じような顔をしたものもある。たぶん,子孫なのだろう。そのような観点から様々な石像や木像をながめていると,古代と現代とはつながっているということ,そして,(少なくとも支配階級においては)日本国民というものがそもそも混血民族なのだということを実感する。

ただし,中国で刊行された資料等を可能な限り読んでみると,墓誌等によって被葬者がソグド人等の西域の人々の一員であることが明らかであるのに,墓室内の壁画はステレオタイプのような漢人風になっているというものも存在することを知ることができる。そのような場合,何らかの政治的な理由により,壁画を作成した職人に対して手本となる原画が手渡され,その手本をモデルとして壁画を構成するように指示・命令があったのではないかと想像される。このことは,日本国の古墳に並べられた埴輪についても同じように言えるのではないかと考える。



 文化遺産オンライン:響銅水瓶



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