高崎市:山上碑と山上古墳

山上碑と山上古墳(高崎市山名町字山神谷)を見学した。そにに至る道路は狭いけれども山上碑のある場所の直下のあたりに駐車場とトイレ等の施設が整備されている。そこにクルマを停め,長い階段を登って山上碑のあるところに至った。各地の博物館等に山上碑のレプリカが展示されており,それらを既に見ているけれども,生きている間にぜひ実物を観たいと思っていた。念願が叶った。

山上碑及び古墳
階段に至るまでの木道と歩道


しばらく階段を登ると,古墳正面に至る。その左手に山上碑を保護するための覆いの建物がある。古墳は,正面から見ると円墳のように見えるが,右側面から見ると前方後円墳のようにも見える。実際には山の尾根の一部を利用したものだ。しかし,このように円墳のようにも前方後円墳のようにも見えることそれ自体が何らかの「思い」をこめたものではないかと考える。

山上碑及び古墳
山上古墳


山上古墳
開口部


山上古墳
古墳側面


山上古墳
説明板


山上碑
山上碑


山上古墳から眼下を見渡すと,谷を挟んで向こう側の山が見える。当時,この山の頂上付近は開拓されていた可能性が高い。一体そこに何が見えたのだろうか?

また,もしこの古墳の周辺の木々が存在しなかったと仮定すると,もしかるすと,東方に山名古墳群を見下ろすことができたかもしれない。仮にそうであるとすると,山名古墳群のある地域からは見上げる高いところにこの古墳が見えたことになる。まさに支配者(またはその外戚)の墓所である。


更にこの古墳の北東には山名氏の居城であった山名城跡があり,その位置関係が非常に興味深い。山名氏は,清和源氏である義家の子である源義国を祖とする新田氏の諸子を祖とし,山名~多胡周辺を支配したが,北朝に与し,足利尊氏の上洛に伴って京都に移動し,室町時代の有力な大名の1つとなった。おそらく,相当古い時代から山名~多胡周辺を支配した家系の者の娘が生んだ子が山名氏の祖なのであろうと推測される。

この地域は,古くは「多胡郡山部郷」と称した。山王廃寺(群馬県前橋市総社町)の「山王」が本来は「山部の主」を意味したものとの仮説をたてることは可能と思われる。この山王廃寺は,古代の「放光寺」であることが発掘調査の結果等によって証明されている。そして,放光寺と山上碑のある山名(山部)との位置関係をみると,放光寺は,山名(山部)の真北に位置することには注目すべきである。そして,放光寺(山王廃寺)は,豊城入彦命を祖とする「上毛野氏(上毛野君・上毛野朝臣)」の氏寺であったと考えられている。豊城入彦命は,崇神天皇の皇子とされているから,清和天皇の時代よりもはるかに古い歴史をもつ。

山王廃寺のある場所には,現在,日枝神社が存在している。その祭神は,大山咋神ということらしい。「大」を敬称と考えると,「山咋」の神が祭神であることになる。「咋」は,「しゃく」であり「釈尊」を意味し得るから,「山」の神が仏教との関係で「釈尊」の権現である「山」の「神」という意味をもち得るのではないかとも考えられる。
素人の空想に過ぎないが,鹿島神宮の祭神(武甕槌神)との関係において,海彦と山彦の神話は,実は,崇神天皇の代の頃の歴史的な大きな出来事が神話の中に変形されて取りこまれたものだと想像することも可能なように思われる。「山王」と縁の深い「猿」と関係があると思われる「猿田」の名をもつ地が関東各地にあり,また,猿田彦を祀る神社も多数ある。全く無関係のこととは思われない。長い歴史の中でバラバラの神話となってしまっているけれども,同じ海神の一族の物語の一部であるのかもしれないと思うことがある。なにしろ,古代~中世のころまで,関東地方の中心部のかなりの部分が海だったのだ。

ちなみに,放光寺(山王廃寺)の真東の方向に大室古墳群(群馬県前橋市西大室町)がある。放光寺の真北の方向にも多数の古墳や遺跡が現存するが,榛名山の噴火により火砕流の下に深く眠っているものがまだまだ多数存在するのではないかと推察される。

山上古墳
現状において山上古墳から見える景観



  山上碑及び古墳
  https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/02.html


(追記)

「山上」をどう解釈すべきかについては,多少問題があると考える。
仮に「上」を「神」と解釈するとすれば,「山」という名の「神」であることになる。

次に「山」をどう読むべきかについても多少問題がある。
普通は「やま」と読ませている。しかし,もしこれが「さん」であるとすればどういうことになるであろうか?

「さん」は,「讃」に通じ,そして,「讃」は「誉める」に通じる。「田」を「国王」または「王」の隠し字であると仮定すると,「誉田」は,「讃」という名の「王(国王)」という意味になり得る。

これらの解釈は,幾つかの仮説を前提にしているし,現在となっては証明のしようのない事柄に属する。
しかし,仮にこの仮説が正しいとすれば,山上碑を建立した人々が「讃」という名の王の子孫であり得ることになるだろう。

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