長野:森将軍塚古墳
だいぶ歳をとってしまい,長距離ドライブがしんどくなってきたので,もしかするとこれが最後の長距離ドライブになるかもしれないと思いつつ,信州まで旅に出た。最初の目的地は,森将軍塚古墳(長野県千曲市大字森字大穴山)。長い間,実物を見たいと思いつつ果たせなかったのだが,やっと念願がかなった。
古墳のある有明山のある地域は旧森村のある地域に相当し,この「森村」の「森」は,本来は,「しん」または「しの」等と読むのが正しいのではないかと思う。その有明山の麓に森将軍塚古墳館がある。その駐車場にクルマを停めた。古墳のあるところまでは自家用車で行くことができず,徒歩または同古墳館との間の往復するバスに乗車することになる。古墳館で往復チケットを購入し,バスで登ることにした。
現地に到着し,運転手の方と復路の乗車時刻(迎車時刻)の打ち合わせをし,簡単な説明を受けた後,古墳を建学した。無論,復元された古墳なのだが,期待に反しないとても素晴らしいものだった。かなり高いところにあるのに,綺麗に葺石で装飾されている。現代であれば機械を用いることも可能だろうが,築造された当時としては,かなり多大な労力を要したのだろうと想像される。それくらい大きな権力と人望のあった人の墓所なのだろう。人は,他人が権力をもっているというだけでは心からの奉仕などしない。
その後円部とされる部分から大きな埋葬施設が発見されており,麓の古墳館の中でそれが再現されている。かなり大規模なものとだと言える。そして,その場所からは現在の千曲市~長野市付近の地を一望することができ,そして,日本アルプスなどの山々が綺麗に見える。最高の場所だと言える。おそらく,単なる墓所ではなく,支配の象徴であると同時に,城(砦)または物見台としての機能ももっていたのだろうと思う。
それと同時に,この古墳の主軸が向いている方角は,直接的には現在の新潟県方面を向いているのだが,実は,遠い昔のユーラシア大陸の方を指すのではないかとも考える。ただし,後円部は歪んだ形をしており,その折れ曲がった方向の麓には現在でも森地区の集落があり,当時も主要な集落が存在した可能性がある。
森将軍塚古墳では,主たる埋葬施設の他にも複数の小規模な埋葬施設が発掘されており,また,尾根道には多数の円墳が並んでいる。それらも見て回った。
古墳の主の名は知られていない。しかし,東部湯の丸PAのすぐ近くにある山頂の城(たぶん,元は大型古墳)の主であったとされる古代の禰津またはその祖ではないかと考える。滋野氏は,禰津(根津)氏と同族またはその祖とされている。「滋野」は,現在の表記こそ異なるとはいえ,もともとは「信濃(科野・神野)」と全く同じものだったと考えるのが合理的だ。そして,禰津(根津)氏は,現在の群馬県付近にも大きな勢力をもっていたということで知られるが,現在の千曲市~長野市東部の古い時代の古墳等の特徴と群馬県の古い時代の古墳の特徴,特に石積み構造や石室の構造という特徴から,信濃から上毛を支配した一族は同族だったのではないかと想像される。「上毛」の「毛」は「もう」と読むが,「滋野」から分かれたとされる望月氏の「望」も「ぼう」または「もう」と読み得る。
また、群馬県の金井東裏遺跡の榛名山大噴火による火砕流堆積の下から当時の甲を着たまま埋もれているのが発見された古代人の歯の成文の分析から,その人が渡来人または渡来系の人であり,生まれ育った地が長野県の伊那谷周辺であるということが判明している。つまり,古代の長野県~群馬県周辺の支配者は,渡来人または渡来系の人々であり,多数の馬を飼育し,馬を自由自在に使いこなし,そして,かなり広域に移動可能な武人によって構成されていたということが示唆されている。
古代の群馬県には「車氏」が存在していたことが知られているが,おそらく同族の別名だろうと思う。その別名の趣旨についていろいろと考えてきた。現時点の私見としては,「車」とは「転輪聖王」であることを指していたのではないかと考えるようになった。ここで考えるべきポイントは,中国の唐代以降の仏教と,魏晋南北朝またはそれ以前における仏教とは異なるという点,そして,当時の宗教が現在あるように明確な教義によって定義されたものとは限らず,また,部族や集団によって異なる礼拝様式をもっていたかもしれないという点だ。いずれにしても,現在知られている教義や様式だけを絶対的な基準として考察すると,誤りを犯す危険性がある。
さて,予定の時刻にバスが迎えに来たのでそれに乗り,山麓に降りた。山麓には古代の遺跡があり,当時の家屋を復元した遺跡公園のようになっている。
ここで復元されている家屋は,いずれも単に草葺となっている。しかし,この地は冷涼であり,それゆえに馬の産地として大いに栄え,そのことが古記録に残されている。それゆえ,私の想像では,草葺きの上に土を塗り固めて防寒としていたと想像するのが正しいように思う。
そのあと,古墳館の隣にある長野県立歴史館の収蔵品を見た。特別展が開催中であり,とても勉強になった。
それらを見て回っている間に午前中の時間の大半を使ってしまった。次の予定地に向かうため,国道403号線を北上中に「公園のベンチ」(長野市松代町東寺尾)というイタリアンレストランがあったので,そこで昼食をとった。とても美味しかった。
森将軍塚古墳館
(追記)
ネット上で利用可能な情報には量的にも質的にも限界がある。
より正確な情報を得るためには,ちゃんとした書籍を入手して読んだほうが良い。ただし,「実は,本当のことはまだよくわかっていない」ということがよくわかることもある(笑)
森将軍塚古墳に関しては,下記の書籍がとても参考になる。どちらも森将軍塚古墳館の受付のところで販売しており,2冊とも購入して読んだ。後者の書籍はシンポジウムの記録なのだが,土器からの編年には非常に難しい問題があることを知ることができる。前者のガイドブックの中には,盗掘者として知られる「塚掘り六兵衛」こと「北村六左衛門」なる人物のことも書かれている。
1:千曲市森将軍古墳館編『千曲市森将軍古墳館ガイドブック』
2:更科市森将軍古墳館編『埴輪が語る科野のクニ 四・五世紀の埴輪祭祀-善光寺平の埴輪の系譜-』
(追記2)
長野県中野市新野高遠にある高遠山古墳の形状が森将軍塚古墳の形状とよく似ているのだそうだ。自然地形を利用したための単なる偶然かもしれないが,もし機会があれば,そこへ行って,実物を見てみたいものだと思う。
高遠山古墳発掘調査概報
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