鹿島神宮
過日,鹿島神宮を参拝してきた。目的は,宝物館で公開されている長さ2メートル以上の太刀(直刀)等の宝物と要石を拝見すること。以前何度か参拝したことがある。久しぶりの参拝だ。無料駐車場に車を停め,参道をのんびり歩き,そして,神宮の鳥居前に立つ。一の鳥居は海の中に立っており,ここからは見えない。
日本に神宮と名のつく神社が幾つかある。全部参拝したわけではないけれど,記憶ではどの神宮も広大な敷地を有し,まさに神社という風格をもっている。本来,こういうものなのだろうと思う。私見では,古代の「國造」の官衙そのものだったと推定され,「國造」が後に宮司となったのだろうと考えている。それゆえ,当時は武士(衛兵)が多数駐屯し,武器庫もあったはずだ。日本の大きな神社の多くが古典的な武道を伝承するための場ともなっている最大の理由は,もともと統治のための施設であり,統治のために必要な検察・警察の機能も有していたからだと考える。裁判権も同じだ。学校では誰でも「クガタチ」などの神判について学ぶ。しかし,神判なので,世俗の判事が行うことができるものではないと素直に考えることのできる人は意外に少ない(ただし,中世に行われた神判については別の考察を要する。)。現代の社会組織や政治思想等の一切合財を全て忘れ,古代を自由自在にシミュレートできる柔軟な頭脳が求められる。
現在の憲法の体制下では,軍事・検察・警察の権限と機能は全て国のものとなり,神社はそのような機能を全く有しない。あくまでも古典的な武道の技と精神を伝えるための場となっている。しかし,地域によって屯田した部族や屯田時期が異なるため,各地の神社に伝承され奉納される武道には実に様々なものがある。古代史を可能な限り正確に知るためには,相当田舎の農民武道のようなものとして祭礼の際に奉納されているだけのようにみえるものでも実は正統派の武道の一種かもしれないという仮説をたてながら,丁寧に観察しその神髄を見抜くことが大事だと思う。
そのような古典的な武道の中には神楽の中に含まれて目立たないようにして包み込まれ伝承されているものが少なくない。実際には神楽を正しく伝承することはそう簡単なことではなく,長年にわたる心身鍛錬と練習の積み重ねが必要で,きちんとした伝承者には敬意を表すべきだと思っている。
さて,鳥居をくぐると案内板がある。これを見るとおおよその見当をつけながら参拝することができる。
奥宮の更に先にある要石をめざし,のんびりと散策しはじめる。楼門をくぐると本殿がある。本殿と向き合うようにして宝物館がある。
宝物館の展示品は撮影禁止になっている。太刀,鎧・冑,狛犬など非常に興味深いものが数多く展示されていた。
宝物館の受付で『新鹿島神宮誌』という冊子を購入した。鹿島神宮は有名な神社なのでインターネット上で数多くの記事を見つけることができるが,やはりこういう冊子を読むと細かいところまで書いてあり,勉強になる。
鹿島神宮:宝物
http://kashimajingu.jp/about/%E5%AE%9D%E7%89%A9/
茨城県教育委員会:直刀黒漆平文太刀拵(附刀唐櫃1合)
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kougei/4-1/4-1.html
宝物館で展示されている宝物の中には「アテルイ」の首と伝わる「悪路王」の首だけの彩色木像もあった。入鹿の首ではないかと思う。「悪路」と音が似ている。「入鹿」は「いるか」と読むのではなく「いろ」,「いろか」または「いろこ(色許)」と読むのが正しいのではないだろうか。「悪路」も「あろ」または「おろ」と読める。仮にそうだとすれば,「蘇我入鹿」の本名は「蘇我色許男」であり得る。「色許」は,通常は「しこ」と読み「鹿(しか)」の音と似ている。『記紀』の編纂者が「入鹿」との文字を選んだのは,その実名を隠しつつも本名を推測できるように最大限の工夫をした結果ではないかとも考えられる。
宝物館から更に歩いて奥宮に到達。古様式なのだろうか,古代にはこのような社殿が多かったのかもしれない。神紋として,三つ巴紋と桐紋が輝いていた。最近,桐紋は七支刀や刃先が枝分かれしている矛などの古代の武器を図案化したものではないかと思うようになった。つまり,桐紋のある神社は,何らかのかたちで物部すなわち古代の軍事的統帥との関連を有するものだと思うのだ。とりわけ,神宮は「國造」の官衙そのものだったと考えると,そのような意味での官衙は軍事的機能を当然もっていたわけで,本来は,そのような大きな神社のみに桐紋があったのではないかと思う。その後,大きな神社から神を勧請して小さな神社が創られるようになり,その際に小さな神社にも桐紋が広まったのではなかろうか。
それと同時に,桐紋は,仏教で言えば釈迦三尊像のような3体の神が並んでいる姿を示すものでもあると考える。日本の神話では,「二」と「三」という数が非常に重要だ。伊弉諾・伊弉冉のように男女ニ神が対になっているパターンと,天照大神・月読神・素戔嗚神のように中心になる神と他の二神との三神が揃っている状態が完成形というパターンとがある。
「三」については某氏とよく意見交換をする。某氏は,オリオン座のベルトのところに並んでいる3つの星のイメージを重視する。確かに,星座を鏡写しにしたような位置関係で3つの重要な神社や遺跡が配置されているところが多数存在する。古代においては天文学が相当発達していたとみてほぼ間違いないだろうと思う。北半球ではオリオン座はとても重要な星座で,古代のギリシアでも中国でも格別の扱いを受けていた。天の中心的な神の姿だと考える伝説等が数多くある。そのような中心的な神は,ゼウス神にしろトール神にしろインドラ神にしろ,雷によって敵を粉々に破壊してしまうのだという。日本では,武御雷神がそれに該当すると考えることはできるだろう。
ところで,現代の観念的な平和しかイメージできない人々にとっては「武器と神とでは調和していない」と感じられるかもしれない。しかし,軍事・検察・警察による統制が健全に機能していないところには国家というものは存立し得ない。そのような物理力を背景にして初めて平和というものが成立し得るのであり,まるごしの状態では略奪され,殺され,抹殺されるだけの結果となる。よく考えてみれば誰が考えても同じ結論になるはずだ。無論,国家というものを完全に否定する立場で考えれば別の結論となり得る。
その先は,ずっと森になっている。まさに神域とでもいうべきか,本来の森林浴とはこういう場所で味わうべきものだろうと思う。世俗にまみれて汚れきっている心が洗われるような気がする。そのような深い森の奥に要石がある。石造りの柵で囲われ,鳥居がある。
要石は頂点部分が地表にちょっと出ているだけなので,何の変哲もないただの石のようにしか見えない。しかし,中心部分が少し凹んでおり,擦り減ってこのような状態になったものと見ることができるので,古代においては何らかの神事を挙行するための用具だった可能性はあると思う。要石の全体を見たことのある人はいないようで,徳川時代に水戸光圀が命じて掘りだそうとしたけれどもいくら掘っても底に達することができず断念したとか・・・
日本に神宮と名のつく神社が幾つかある。全部参拝したわけではないけれど,記憶ではどの神宮も広大な敷地を有し,まさに神社という風格をもっている。本来,こういうものなのだろうと思う。私見では,古代の「國造」の官衙そのものだったと推定され,「國造」が後に宮司となったのだろうと考えている。それゆえ,当時は武士(衛兵)が多数駐屯し,武器庫もあったはずだ。日本の大きな神社の多くが古典的な武道を伝承するための場ともなっている最大の理由は,もともと統治のための施設であり,統治のために必要な検察・警察の機能も有していたからだと考える。裁判権も同じだ。学校では誰でも「クガタチ」などの神判について学ぶ。しかし,神判なので,世俗の判事が行うことができるものではないと素直に考えることのできる人は意外に少ない(ただし,中世に行われた神判については別の考察を要する。)。現代の社会組織や政治思想等の一切合財を全て忘れ,古代を自由自在にシミュレートできる柔軟な頭脳が求められる。
現在の憲法の体制下では,軍事・検察・警察の権限と機能は全て国のものとなり,神社はそのような機能を全く有しない。あくまでも古典的な武道の技と精神を伝えるための場となっている。しかし,地域によって屯田した部族や屯田時期が異なるため,各地の神社に伝承され奉納される武道には実に様々なものがある。古代史を可能な限り正確に知るためには,相当田舎の農民武道のようなものとして祭礼の際に奉納されているだけのようにみえるものでも実は正統派の武道の一種かもしれないという仮説をたてながら,丁寧に観察しその神髄を見抜くことが大事だと思う。
そのような古典的な武道の中には神楽の中に含まれて目立たないようにして包み込まれ伝承されているものが少なくない。実際には神楽を正しく伝承することはそう簡単なことではなく,長年にわたる心身鍛錬と練習の積み重ねが必要で,きちんとした伝承者には敬意を表すべきだと思っている。
さて,鳥居をくぐると案内板がある。これを見るとおおよその見当をつけながら参拝することができる。
奥宮の更に先にある要石をめざし,のんびりと散策しはじめる。楼門をくぐると本殿がある。本殿と向き合うようにして宝物館がある。
宝物館の展示品は撮影禁止になっている。太刀,鎧・冑,狛犬など非常に興味深いものが数多く展示されていた。
宝物館の受付で『新鹿島神宮誌』という冊子を購入した。鹿島神宮は有名な神社なのでインターネット上で数多くの記事を見つけることができるが,やはりこういう冊子を読むと細かいところまで書いてあり,勉強になる。
鹿島神宮:宝物
http://kashimajingu.jp/about/%E5%AE%9D%E7%89%A9/
茨城県教育委員会:直刀黒漆平文太刀拵(附刀唐櫃1合)
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kougei/4-1/4-1.html
宝物館で展示されている宝物の中には「アテルイ」の首と伝わる「悪路王」の首だけの彩色木像もあった。入鹿の首ではないかと思う。「悪路」と音が似ている。「入鹿」は「いるか」と読むのではなく「いろ」,「いろか」または「いろこ(色許)」と読むのが正しいのではないだろうか。「悪路」も「あろ」または「おろ」と読める。仮にそうだとすれば,「蘇我入鹿」の本名は「蘇我色許男」であり得る。「色許」は,通常は「しこ」と読み「鹿(しか)」の音と似ている。『記紀』の編纂者が「入鹿」との文字を選んだのは,その実名を隠しつつも本名を推測できるように最大限の工夫をした結果ではないかとも考えられる。
宝物館から更に歩いて奥宮に到達。古様式なのだろうか,古代にはこのような社殿が多かったのかもしれない。神紋として,三つ巴紋と桐紋が輝いていた。最近,桐紋は七支刀や刃先が枝分かれしている矛などの古代の武器を図案化したものではないかと思うようになった。つまり,桐紋のある神社は,何らかのかたちで物部すなわち古代の軍事的統帥との関連を有するものだと思うのだ。とりわけ,神宮は「國造」の官衙そのものだったと考えると,そのような意味での官衙は軍事的機能を当然もっていたわけで,本来は,そのような大きな神社のみに桐紋があったのではないかと思う。その後,大きな神社から神を勧請して小さな神社が創られるようになり,その際に小さな神社にも桐紋が広まったのではなかろうか。
それと同時に,桐紋は,仏教で言えば釈迦三尊像のような3体の神が並んでいる姿を示すものでもあると考える。日本の神話では,「二」と「三」という数が非常に重要だ。伊弉諾・伊弉冉のように男女ニ神が対になっているパターンと,天照大神・月読神・素戔嗚神のように中心になる神と他の二神との三神が揃っている状態が完成形というパターンとがある。
「三」については某氏とよく意見交換をする。某氏は,オリオン座のベルトのところに並んでいる3つの星のイメージを重視する。確かに,星座を鏡写しにしたような位置関係で3つの重要な神社や遺跡が配置されているところが多数存在する。古代においては天文学が相当発達していたとみてほぼ間違いないだろうと思う。北半球ではオリオン座はとても重要な星座で,古代のギリシアでも中国でも格別の扱いを受けていた。天の中心的な神の姿だと考える伝説等が数多くある。そのような中心的な神は,ゼウス神にしろトール神にしろインドラ神にしろ,雷によって敵を粉々に破壊してしまうのだという。日本では,武御雷神がそれに該当すると考えることはできるだろう。
ところで,現代の観念的な平和しかイメージできない人々にとっては「武器と神とでは調和していない」と感じられるかもしれない。しかし,軍事・検察・警察による統制が健全に機能していないところには国家というものは存立し得ない。そのような物理力を背景にして初めて平和というものが成立し得るのであり,まるごしの状態では略奪され,殺され,抹殺されるだけの結果となる。よく考えてみれば誰が考えても同じ結論になるはずだ。無論,国家というものを完全に否定する立場で考えれば別の結論となり得る。
その先は,ずっと森になっている。まさに神域とでもいうべきか,本来の森林浴とはこういう場所で味わうべきものだろうと思う。世俗にまみれて汚れきっている心が洗われるような気がする。そのような深い森の奥に要石がある。石造りの柵で囲われ,鳥居がある。
要石は頂点部分が地表にちょっと出ているだけなので,何の変哲もないただの石のようにしか見えない。しかし,中心部分が少し凹んでおり,擦り減ってこのような状態になったものと見ることができるので,古代においては何らかの神事を挙行するための用具だった可能性はあると思う。要石の全体を見たことのある人はいないようで,徳川時代に水戸光圀が命じて掘りだそうとしたけれどもいくら掘っても底に達することができず断念したとか・・・
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