群馬県高崎市:観音塚古墳
過日,観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町字観音塚)を見てきた。古墳の近くにある資料館駐車場に車を停め,そこから徒歩数分。とても大きい。この周囲は住宅地になっており,時間の関係もあって全景を撮影するのは困難と判断し断念。部分の写真を採りながら墳丘に登ってみた。
基壇部分を上ると墳丘が見える。右手の後円部には石室がある。左手の前方部もかなり大きいのだが,前方部内に何か埋蔵されているかどうかは不明。あるかもしれない。地下レーダーで調査してみたら良いのではないだろうか?
古墳中央部側面に小路があり,そこを登った。川原石のようなものが露出している。葺石ではないかと思う。後円部に登ってみると,頂上付近に石の祠が建てられていた。小さな狐の像が安置されているものもあり,稲荷神社なのではないかと思う。地名からしても,秦族と縁の深い古墳との可能性を考えてしまう。
かつては周囲に住宅等があまり存在せず,田畑が多かっただろうと思う。そもそもこの古墳のある地域は高台になっており,この地域周辺を支配した豪族の城(稲城=稲荷?)があった場所に違いない。かなり遠くまで見渡せたことは間違いなく,古墳が見張台としても機能していた可能性がある。
後円部頂上付近から前方部のほうを見てみた。それから前方部へと移動した。キツネノマゴ(Justicia procumbens)がいっぱい生えており,開花していた。キノコも生えていた。テングタケ属(Amanita sp.)だろうと思う。
前方部の頂上には葺石が多数露出している。祠と石碑があった。全体としてみると,後円部よりも前方部のほうがずっと大きい。
前方部の頂上から後円部のほうを見てから墳丘を降りた。
後円部には石室がある。戦時中に防空壕を掘っていて偶然発見されたものだそうだ。右脇には石塔のようなものが多数あった。石室内に入ることができたので,中を見てみた。かなり広い。大きな石室だと思う。
この石室内からは様々な遺物が発見された。その中に「銅承台付蓋鋺」という金銅製の蓋付鋺がある。これが朝鮮半島にある武寧王墓出土品と酷似しているというので話題になっている。自虐史観的な人々は,朝鮮からもたらされたものだというし,もっと極端な論者は,古代朝鮮の王朝が日本を支配していたともいう。逆の考え方もあり,当時の大和朝廷が朝鮮半島を支配していたという考え方がある。更に積極的な考え方では,継体天皇と武寧王とは同一人物だったという見解もある。私は,「武寧」と「武内」とは同じだと考えており,しかも,「武内」は襲名であって個人名ではないと思っている。「多家」,「田家」,「建」,「竹(籠)」または「龍」の一族とでもいうべき意味なのではないかと推定できる。
他方,観音塚古墳出土の「画文帯環状乳神獣鏡」という鏡と同型の鏡が群馬県高崎市八幡観音塚古墳や千葉県大多喜町台古墳からも出土しているとのこと。同族だったのだろうと思う。
観音塚古墳の被葬者は不明だ。単なる空想に過ぎないものではあるけれども,百済とされている古代朝鮮国を大倭国の郡の一つとして考えると,観音塚古墳の被葬者は,東城王かもしれない。武寧王の没年は西暦523年とされている。その後,西暦525年~550年ころに榛名山の大噴火が発生し,東の都とでも言うべき毛國が壊滅した(畿内にある都は西都となる。)。毛國の壊滅は,大倭国の総生産に打撃を与えたのに違いなく,そのために朝鮮半島における倭国の勢力が一気に減退してしまったと考えることもできる。なお,「羊」は「余」と同義かもしれない(逆に,「余」が「羊」の隠し字であるということもあり得る。)。
いずれにしても,榛名山噴火の後,用明天皇とかかわりのある蘇我氏が急激に力を増したのは,毛國と密接な関連を有していたからであり,それゆえに毛國再屯田の利権を得て勢力を拡張することができたと考えることは合理的な推論ではないかと思う。物部宗家に先手を打って攻撃し滅亡させることによって,蘇我氏は,榛名山噴火で荒廃した毛國の支配権を手に入れ,再屯田によって富を獲得した・・・という推論を展開することになる。そして,藤原不比等の母(車持国子君の女=与志古=車持夫人)は,実は采女ではなく,采女として中臣鎌足に下賜された女性でもなく,もっと高位で別の人生を歩んだ女性だったという史実が隠されているかもしれない(例えば,鏡王女と同一人物=采女下賜は天皇御落胤説を基礎づけるための後世の虚構)。大化改新(西暦646年)~壬申の乱(西暦672年)の前後の歴史は,これまで考えられているのとだいぶ異なるものという可能性はある(百済滅亡は西暦660年,高句麗滅亡は西暦668年,統一新羅の衰退は西暦780年以降,その実質的滅亡は西暦920年,統一新羅の後裔である後百済の滅亡は西暦936年)。なお,「用明天皇」の「用明」の字義についても再検討の余地があるのではないかと思う。
さて,古墳を見た後,資料館に戻った。資料館には出土した遺物等が収納・展示されている。古墳を見た後に寄って出土物を拝見した。ただ,写真撮影禁止になっているので,出土物のカラー写真と説明が収録されている図録を購入した。
なお,資料館の前庭には「八幡古墳群20号墳」が移設され保存されている。
観音塚古墳
観音塚考古資料館
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