群馬県高崎市:石塚薬師塚古墳

過日,石塚薬師塚古墳(群馬県高崎市菅谷石塚)を見てきた。元は5基の古墳からなる古墳群だったらしい。現在,周囲にはそれらしいものがないではないが,明確に識別できるのは1基だけ。古い時代に掘削されて薬師堂が建てられていたらしく,現在残っているのは基壇の部分だけではないかと思う。

石塚薬師塚古墳


石塚薬師塚古墳


古墳の中央部には岩のようなものがあり,その上に小さな祠がある。よくわからないのだが,ものの本には薬師様だと書いてある。

石塚薬師塚古墳


石塚薬師塚古墳


私の推測では,この古墳は,もとは相当大きな円墳または前方後円墳だったのではないかと思う。その大部分が掘削され,墓室もほぼ完全に破壊され,墓室の一部を構成していた岩だけが残されたということではなかろうか。

石塚薬師塚古墳


この古墳に寄ったのには理由がある。それは,この古墳のある地域の北には「金古」と「箕郷」という地域があり,また,南には「小八木町」という地域があることから,羊太夫ゆかりの古墳かもしれないと思ったからだ。「箕郷」は「賛郷」または「三家」に由来するものだろうし,「金古」は「金子」と同じだろうと思う。更に,「三家」は「三寺」と実質的には同じではないかと考える。

多胡羊太夫碑は全く別のところ(吉井)にある。しかし,碑の所在地が羊太夫なる者の本拠地でなければならないという必然性は全くない。碑の所在地が本拠地だと断定する意見もあるが,根拠は何もないと思う。碑が他所から移転された可能性も否定することができない。

「多胡」は,本当は「多賀」,「多子」,「多古」、「田子」,「種子(田根子)」,「太田子」あるいは「大児」または「刀児(刀自)」だったかもしれないとも思う。なお,「刀自」を名にもつ歴史上の人物としては,藤原鎌足の娘で大友皇子の妃・耳面刀自がある。その母は不詳とされるが,車持国子君の娘・与志古ではないかと思う。壬申の乱で大友皇子が破れた後,耳面刀自は中臣鎌足ゆかりの鹿嶋に逃れようとして九十九里までたどり着きそこで亡くなった。遺骸は,内裏塚古墳(千葉県匝瑳市野手)に葬られたが,後に大塚原古墳(千葉県旭市大塚原)に改葬されたという(病没ということになっているけれども,鹿嶋の支配者が大海人皇子から朝敵とされることを恐れ,匝瑳に押しとどめ,もしかすると自刃させた,あるいは,匝瑳の人々が匿ったというのが真相ではなかろうか。改葬されたのはだいぶ後になってからだが,少しでも鹿嶋に近いところへ・・・という思いがこめられているのではないかと思う。ちなみに,匝瑳とは「麻」の別字ではないかと推定され,忌部氏や秦族との関係が深い。)。千葉県匝瑳市の近くには千葉県香取郡多古町がある。この「多古」は,本来は「多胡」と書くのが正しいようだ。

「多胡」と同じ読みになると推定される地名の場所にある古墳としては,春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町大字春日),山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町大字山田),葉室塚古墳(大阪府南河内郡太子町葉室)がある。両方とも大型の方墳だ。春日向山古墳は用明天皇の墓所,山田高塚古墳は推古天皇の墓所とされており,何やら因縁を感ずる。千葉県の匝瑳の比較的近くには龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺)という大型の方墳があり,毛國には宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)がある。方墳は,その後,仏教寺院の土塔になったと思われる。大野寺土塔(大阪府堺市中区土塔町),頭塔(奈良市高畑町)等が有名だ。

「多胡」と同じ読みになると推定される神社としては,愛宕神社(京都府京都市右京区嵯峨愛宕町)がある。愛宕神社の旧名は「阿多古神社」だとされている。

もちろん乏しい判断資料だけに基づいて断定することは危険なので,様々な可能性を考え続けている。


  上野三碑
  http://www.pref.gunma.jp/03/x4500026.html

この記事へのコメント

2014年08月25日 23:55
緑屋さん

草刈りをしたばかりのような状態でした。

主に笹だと思います。笹のほかは,スゲの類と比較的最近の外来種が主体で,特に変わった植物には気づきませんでした。

樹木は,たぶんエノキだろうと思います。葉脈が鮮明で鋸歯があり,葉の先端は尾状に伸びています。
2014年08月25日 22:57
薬師堂ですか

土手が刈り取られて何の植物が有ったか知りたいですね。

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