牛久市:愛宕神社古墳
先日,愛宕神社古墳(茨城県牛久市城中)を観てきた。得月院というお寺前にある駐車場兼バス停のようなところに車を停め,そこから南方に歩いて数分。城中区民会館という公民館のような建物手前右手に愛宕神社の鳥居がある。その鳥居の先にある石段を登ったところが古墳のようだ。
この古墳は方墳だとされているけれども,中世に城中城という城が構築されたところで,その土塁構築のためにかなり破壊されてしまっている可能性が高く,墳丘の元の形はわからない。祭神は不詳だが,元から愛宕神社だったとすれば「迦具土命」ではないかと思う。この神社の近くに八坂神社もあり,そこでは「建速須佐之男命」を祀っているようだ。近隣には八坂神社が結構たくさんある。
とりあえず,愛宕神社に参拝し,それから周囲を拝見。
社殿の屋根を見ると,「三つ巴」の神紋があり,また,「茶の実」とも「朧州浜」とも見える謎の紋もある。
社殿前には平たい岩が敷石として用いられており,また,社殿左側にも平たい岩が置いてある。観たところ筑波山で産出する岩石のように見えるし,その平たい形状からして,元はこの古墳の石室を構成していた石材だったのではないかと思う。古い時代に古墳が破壊され,墳丘の上部が大規模に掘削されてしまった後,こういうことになったのだろうと想像する。そういうことなどから考えて,どうもこの古墳はもっと大きな円墳だったのではないかと考えるわけだ。
古墳の観察を終えてから,愛宕神社隣にある城中区民会館に寄ってみた。そこには,古い薬師観音堂がある。実は,以前はかなり傷んでいたのだけれど,比較的最近,修復・整備されたようだ。
牛久市の史跡で案内板や説明板があるところは非常に少なく,果たして文化政策がこれでよいのか疑問に感じることが多々あるのだけれど,この観音堂には説明板がある。それによると,この堂内にある薬師観音像は行基作と伝えられているけれども,もっと後の平安時代末期の作と推定されているそうだ。
私の想像では,最初は,大己貴神と少彦名神を祀る神社があり,それが後に神仏習合して薬師如来を本尊とする寺院となり,更に観音堂と愛宕神社に分かれたのではないかと思う。実際,この周辺では薬草となり得る野草をみつけることができるから,古代における医療のための施設だった可能性もある。現在では単なる野草としてありふれた植物になっているものも,古代において植栽・栽培されていたものかもしれない。何しろ,古代の海水面は現在よりもずっと高く,台地下はすぐに海だった可能性が非常に高いし(この周辺には,現実に貝塚などがあり,海産貝類の残骸を採取することができるだけではなく,通常は海浜を主たる自生地としているはずのカヤツリグサの仲間などの自生もある。),また,人か開墾を始める前には台地及びその斜面には極相林しかなかったはずで,多種多様な野草が自生していた可能性は著しく低い。たぶん,皆無に近かったと推定している。
ここに現存する観音像は,たしかに平安時代末期に製作され,その後,何度か修理されて現在に至っているものだろうと思う。しかし,以前には,本当に行基作の別の像があり,それが長い年月の間に朽ち果ててしまったので,現在の像を改めて製作して奉納したものかもしれない。
それはさておき,この観音堂の脇には小さな祠が二つある。大日信仰と関係するものかもしれない。このあたりでは,神仏習合の時代に熊野権現や大日如来などの信仰がだいぶ広まったようだ。素人の想像に過ぎないが,熊野権現は経津主神または甕速日神と同視され,大日如来は天照大神と同視されていた可能性があるのではないかと思い,あれこれ考えることがある。
更にその手前には,古い石碑や石仏などが並べられている。この観音堂の修築・整備をした際にまとめられたものだと思う。古いもののようで,たぶん大日如来ではないかと思う。手前にある円い石は男根神ではないだろうか。
この記事へのコメント
カクチョウランは,日射量が多く暖かい地域でないと育たないので,本州では温室なしでは厳しいだろうと思います。条件さえ合えば非常に強い植物なんですけどね。
こちらの地方の古代史は謎です。
かなり難しいです。
古墳も沢山ですね。古代、こちらの豪族たち、大和と闘っていたかと想像しています。